2681年 3月 23日 探訪
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此方は、黒川に架る栃木縣道三號線の橋であります。 近場で見た橋からで記しますと、 【壬生町藤井壬生甲-壬生甲、壬生乙 高舘橋】 の少し西側の黒川に架る東雲橋依り六キロ程上流側と云つた處でありますが、まあ縣道三號線の橋と云ふだけの方が簡單かも知れませんね。呵呵 扠、ぱつと見 【栃木市柳原町 保橋】 にも通ずる如何にも昭和卅年代の橋と云ふ感じでありますが、其實如何でせうか。 と云ふ事で、此方左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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黒川橋。 何か手前のガアドレイルに焦點が合つて仕舞ピンボケして居りますが、如何にもと云ふ感じの親柱であります。 銘板の字體も、同系統で云へば 【黒磯市板室 幾世橋】 同樣力強い感じであります。 |
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黒川。 表面は結構痛んで居りますが、一見すると洗出仕上の樣な感じに見える樣、小砂利が良い模樣に成る樣な仕上に成つて居ります。 下部の造型迄凝つてゐるのが素敵でありれります。 |
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横に附られてゐる工事銘板を見ますと、 【壬生町下稻葉-都賀町家中 雷電橋】 や 【栃木市柳原町 保橋】 と同一の組合せであります。 |
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高欄と地覆は西暦2014年以降に更新された物でありまして、元の姿は 【ストリイトビウ】 にて確認出來ました。 |
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排水桝は元からの物でせう。 では右岸側へ移動致します。 |
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くろかわばし。 何か右岸側の方が親柱の痛みが激しい感じであります。 |
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ね、何故なのでせうね。 |
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昭和33年8月竣功。 成程、保橋の一年後の竣功でありますか。 |
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横から見ました處、六徑間のPCT桁でありました。 |
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右岸側の桁の下流側には桁の施工會社の銘板が附て居ります。 |
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桁と橋脚。 橋脚、柱部分の細い型枠跡が素敵であります。 梁部は後年に成つてから補強されて居りますね。 |
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左岸側橋臺。 此方も型枠跡が素敵であります。 |
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して、直上に斯樣な混凝土構造物が在るのでありますが、良く見たら先代橋の橋臺でありました。 如何にも戰前物らしく、堤防から出來る限り迫出して居りました。 因に此方、大正十五年六月竣功の樣であります。 |
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橋臺上からの眺であります。 右岸側は堤防を嵩上してゐる爲でせうか、橋臺は撤去されてゐる樣であります。 其と、橋脚の痕跡も見當りません。 |
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折角でありますので、横から。 桁の木材が殘つてゐるのが素晴しいであります。 |
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正面から。 橋臺とは別に桁が載る部分は混凝土が打たれて居りますが、之は架替る時に材木と共に其儘交換出來る樣に成つてゐると云ふ事でせうか。 |
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型枠の跡が分ら無い、手荒く綺麗な造であります。 強て云へば、部分的に如何作つたか分ると云ふ程度でせうか。 流石大正時代の仕事であります。 併し、實際に觸れる事が出來る状態で現存してゐる木橋の橋臺、 【馬頭町馬頭 一渡戸橋ト舊橋跡】 もさうでありますが、此方も多少の罅割は御坐いますが、可也良い状態の儘殘つてゐる方では無いでせうか。 是は此儘保存し無いと勿體無いと思ふのでありますが、扠、今後如何成るのでせうか。 |
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之は橋の殘骸かと思ひまし度が、違ひますよね。呵呵 |
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右岸側から見ました。 何か混凝土構造物が御坐います。 |
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之は橋脚の基礎、とは場所的に考へられませんので、若かしますと橋臺に載つてゐた桁の基礎の部分でせうか。 |
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橋臺を壞す時、此部分は先に撤去しつゝも材木が附てゐて處分するにもアレなので、其儘現場に放置し度と云ふ處でありますかね。 流石昭和卅年代の工事と云ふ感じで、今と成つては逆に有難い遺構に成つてゐると云ふ感じであります。 いやあ此方、昭和卅年代のPCT橋と云ふ點だけでも素敵だつたのでありますが、先代橋の遺構も之だけ殘つてゐると云ふ點で、手荒く素晴しい物が見られたなと云ふ感じであります。 先代橋の遺構は、此儘忘れられてずうつと殘つてゐれば良いなと思つた次第であります。呵呵 以上、御附合有難う御坐いました。 |