栃木市柳原町 保橋

2681年 3月 15日 探訪

 此方は 【壬生町下稻葉-都賀町家中 雷電橋】 依り三キロ弱程思川を下つた所に架る、舊栃木縣道二號線の橋であります。

 バイパスが出来て此方は舊道化して居りますし、一見して今時の橋では無いのが如實に分りますが、其實如何でせうか。

 と云ふ事で、此方左岸側から見て行き度いと思ひます。
 【石橋町上古山 関沢橋】 の樣な、如何にも昭和廿年代から四十年代と云ふ意匠の親柱であります。

 と云ひますか、銘板が見辛いでありますね。
 保橋。

 "橋"が變字體と云ふのも、如何にも昭和四十年代迄と云ふ感じであります。

 親柱表面は洗出仕上に成つて居ります。
流石元一桁縣道と云つた處でせうか。
 横面には工事銘板が附て居りました。

 之で矢張PCT桁と分つて仕舞ますし、下部工も共に雷電橋と同一でありますね。
 親柱、上流側はきつと歩道橋が出來た時に撤去されてゐるのでせう。

 嗚呼、若現存してゐれば此方側に"小倉川"と表記されてゐたのかも知れ無いと思ひますと、手荒く、實に手荒く殘念であります。
 高欄は今時のガアドレイルに更新されて居ります。

 航空冩眞を頼りに致しますと、元の姿は混凝土管を二本した、一般的な昭和卅年代の物だつたと思はれます。
多分。

 では右岸側へ移動致します。
 桁同士の繋目でありますが、多分之が元からの伸縮裝置だと思はれます。
 此方も元からの親柱は撤去されて居りますが、惡線形の爲でせう、きつと衝突事故が多いのだと思ひますが、警戒色の頑丈さうな親柱が新設されて居りました。

 因に此歩道橋部分でありますが、此方依り少し上流側に先代橋が架つてゐた樣であります。
 昭和三十二年十月竣功。

 手荒く美しい親柱だと此方側ですと良く分ります。

 では左岸側に戻ります。
 して、此方の歩道橋部分でありますが、實際の處は西暦2004年以降2008年迄の竣功の樣に航空冩眞では見えました。

 橋梁點檢結果ではアレなのは内緒であります。
 其割に排水桝は 【益子町大澤 上町橋】 の樣に古風なのであります。

 と云ふか、長靴ぴかぴか。呵呵
 横から見ました處、八徑間のPCT桁てだありました。

 其にしましても基礎部分が何か凄く頑丈さうであります。
 擴大して見ました處、基礎部分も美しい細い型枠跡であります事から、元から斯樣な造の樣であります。

 PC工法は戰後日本に導入された物でありますから、此時代には進んで採用して見たと云ふ事だと思ひますが、其でも可也早い時期のPC桁だと思ひます。

 して、何依りも當時物と思しき伸縮裝置が見られたのも收穫でありましたし、手荒く滿足の行く物件でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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