黒磯市黒磯-那須町高久甲 日本鐡道(國鐡東北本線)那珂川橋梁跡

2679年 11月 12日 探訪

 此方は 【黒磯市本郷町、橋本町-那須町高久甲 晩翠橋 【一】】 から四百米程那珂川を下つた處、日本鐡道、所謂國鐵の東北本線の舊橋梁跡であります。

 詳しい事は割愛致しますが、明治廿年から大正九年迄の卅三年間程使用されてゐた部分であります。
路線變更の理由は地形に由來する線形の惡さで急曲線、急勾配區間と成り、思ふ樣に速度が出せ無かつた爲の樣であります。
まあ其でも 【那須町寺子乙 東北本線餘笹川橋梁、同舊橋梁跡】 の樣に現路線と同一位置に橋梁が在る樣に、 此方 【氏家町蒲須坂-宇都宮市川俣町 日本鐡道(國鐡東北本線)ノ遺構等 【其一】】 を始めとする一連の宇都宮-蒲須坂間の樣な大膽な路線變更は黒磯-黒田原間はされてゐ無い共思ひますので、或る意味最初から高速化するであらう將來を見据られ無かつたのかと、 とは云へ明治時代に其處迄求めるのはアレかと思ひつゝ、斯樣に遺構が殘つて眺められるだけ有難いと思ひ乍見て來ました。

 まあ一番は折角此處迄來たのだから、晩翠橋遣つた序でに見て行かうかと云ふ處でありますがね。

 と云ふ事で、此方右岸側から簡單に見て行き度いと思ひます。
 現路線の半分程の高さに架つてゐた樣であります。

 昭和廿二年の航空冩眞を見ますと、黒磯驛から此處迄は切通しにして下つて來てゐる樣でありますので、必要最低限で架橋をし、早急に開業し度かつたと云ふ事でせうか。

 此處から高久驛迄登りに轉ずる事を考へれば、黒磯驛から現路線の樣に緩い勾配で標高を稼いだ方が良かつたでせうに。
尤も、若さうだつたとしましても、戰後の輸送力に明治橋梁が耐へられたか如何かは難しい處だつたと思ひますが。

 併し此方、構造的には角部分が石造でありますので、構造的には 【河内町東岡本-高根澤町寶積寺 東北本線上線鬼怒川橋梁】 に近いと思ひますので、當時としての最新技術を導入されてゐたのでは無いでせうか。
 左岸側の橋臺は、草生してゐて分りませんでした。

 唯、現下線の橋脚手前、波消塊團の處に四角く波が消えてゐる處が御坐いますが、彼が第三橋脚跡の樣であります。
 眞正面から見ますと、其手前の石の處にも煉瓦の四角い橋脚跡が確認出來ますが、其が第二橋脚跡の樣であります。

 第一橋脚跡は、多分拙の足元邊に埋つてゐるのでありますかね、分りませんでした。
 で以て現上線の橋梁でありますが、此方も大正物件でありますから立派な歴史的橋梁だと思ふのでありますが、 或る意味鐵道橋梁では何處にでも在る年代の爲か語られる事は無いでありますね。
寧ろ同樣の構造、年代でも黒川橋梁の方が徑間も長く撮影地點としても有名でありますし、此方には下に斯う云ふ物が殘つて居りますれば、 或る意味忘れられた存在に近いのも仕方が無いのかなと思つて仕舞ます。

 まあ、橋脚が混凝土製と云ふのもアレなのでありますかね。
當時としましては近代的最新技術だつたでせうに。

 さう思ひ乍見て居りましたが、さう云ふ點では道路橋の方が恵まれてゐるのかなあと思つた次第であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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