河内町東岡本-高根澤町寶積寺 東北本線上線鬼怒川橋梁

2673年 2月 26日 探訪

 明治卅年、上河内村下小倉-氏家町向河原間に架つてゐた東鬼怒川橋梁を廢し、現在の位置に開通しましたのが此方の鬼怒川橋梁であります。

 と云つても現在の物は二代目で、大正六年に掛替られた物ださうであります。

 以前は赤つぽい色だつたのでありますが、今の色には二六六一年に塗替られた樣であります。

 まあ、詳しく解説されて居りますペイジが他に御坐いますので、其方を參考にして戴き度いと思ひます。

 では、此方右岸側から見て行きます。

 と云ふ事で橋臺の支承部分でありますが、毎囘思ふのでありますが、良く之だけの物で支へられる物だと感心致します。
 橋臺正面から。

 混凝土の部分と鋼材の部分は二六二五(西暦1965)年に鐵桁部分が出來た、若しくは架替られた時に補強されたのでせうか。
 意外かと思はれるでせうが、實は鐵桁部分は大正六年當時の物では御坐いません。

 其證據に橋臺直ぐの部分の桁の銘板が之なのでありますが、西暦1965年の刻印と成つて居ります。
又、「日本國有鐵道」と新字體でもありますしね。
 とは云へ、三桁目だけが他とは違ひますので、若しかすると此處だけは當時物なのかも知れません。

 一箇所だけ上下幅が違ふのが御分り戴けるだらうか。
 素敵な字體。

 反射鏡が附てゐるのは夜間の視認性の爲でせうね。
 大正六年以來の色々な物が煉瓦に染込、良い味はいを出して居ります。

 ええ、何と無くでありますが觸りませんでした。
大氣開放の黄金時代の長さを考へますとね、ええ。
 此螺旋は何が附てゐた跡なのでせうか。
 此處が問題の桁が違ふ部分であります。

 桁が載る部分が水平では無い辺り、支承の構造も違ふと云ふ事でありますね。
多分。

 其と、何故か此處の桁だけ確か銘板が附て無かつた様な氣が致しました。
 構造的にも如何なのでせう。

 正直、拙には上下幅の違ひ以外良く分ら無いのでありますが。
 トラス側に成る橋脚は太く成つてゐます。
さうして、トラスに成つてからの四つ目、柵が附いてゐ無い物が補強されてゐ無い大正當時其の儘の姿を殘してゐます。
相當出來が良かつた一本、と云ふ事だつたのでせうか。呵呵

 併し此の高低差感傳はるでせうか。
 さう、足元は斷崖なのであります。

 して、色の變り目迄流れる時も在るつて事だと思ふのでありますが、水深三米前後つて事でありますかね。

 嗚呼、でも完成した當時の石や煉瓦の色合が偲ばれてとても綺麗なのでありますが、鬼が怒ると書かれる川でありますから、ええ。

 では左岸側近くへ移動致します。
 流石に大きいであります。

 併し之だけの煉瓦と石を積むのつて大變だつた事でせう。
此の下にももつと埋まつてゐるのでありますから。

 其と流石大正時代のトラスでありますね、鋲の數が凄いであります。
而も之が現役でありますから。

 して、肝心の原型を留めてゐる橋脚は撮忘れて居ります。呵呵
 其と右岸側、現在の下線の下に所々煉瓦作りの構造物が露出してゐる場所が何箇所も在るのであります。
 斯う云ふ具合に混凝土の塊も御坐います。
 若しかして明治卅年に完成した初代橋梁の何かの痕跡なのでせうか。

 と思ひ少し調べました處、初代橋梁の橋臺跡なのでは無いかと推察されて居られる方のペイジが御坐いました。
成程、納得であります。

 が、西暦2003年頃大々的に撤去されて仕舞つた樣でありますので、此等は殘骸程度なのでありますね。

 併し此等、意外と知られて居らず勿體無いと思ふのであります。
出來れば氏家の東鬼怒川橋梁跡と同樣に注目されて欲しいなと思ふ次第であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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