氏家町蒲須坂-宇都宮市川俣町 日本鐡道(國鐡東北本線)ノ遺構等 【其一】

2676年 1月 12日 4月 5日 探訪

 日本鐵道とは、明治時代に作られた、今の東北本線の原型と云ふべき私鐵であります。
まあ、私鐵で東京から青森迄行つてゐたと云ふのも中々にアレでありますが、詳くはもつと丁寧に記述されて居りますペイジが御坐いますので、 其方を參考にして戴きませう。
と云ひますか、此な邊鄙なペイジに迄來る何て彼方此方見渡してからの人でせうから、今更説明不要でありますね。

 と云ふ事で、現在でも簡單に確認出來ます、廢止された開業當初の遺構を見て行き度いと思ひます。

 【現在地】

 して此方、東北本線の蒲須坂踏切から上野方面を見て居ります。
此方に開業當初に出來たと云はれる暗渠が在ると云ふ事で見に來ました。

 併し、元々は一直線に進んでゐたと云ふのが、踏切から先で蒲須坂驛に向ひ左手に折て行く樣に成つてゐるのが良く分ります。
 其が此方であります。
煉瓦と石で出來てゐると云ふのが如何にも明治時代と云ふ感じで素敵でありますね。
尤も、其以外の部分は時々に更新されてゐるでせうが、其でも十分に明治の雰圍氣を現代に傳へてゐるでせうか。
 橋でも何でもさうでありますが、當時は直交する事が重要なのであります。

 因に、下線側は混凝土製に成つて居りますが、之は東北本線が複線化された時に作り直された爲なのでは無いでせうか。
 まあ此な感じで線路の下を通つて行くと云ふ譯でありますね。

 併し何れだけ嚴重に境界を明示したゐのでせう。
明治時代の登記何て手荒く好い加減な處が多いと云ひますのに。
 して、ふと氣附て仕舞つたのであります。
現在の路線とは別方向に進む境界標に。
 之は一直線に鬼怒川橋梁を目指して進んでゐた當時の用地の名殘なのでは無いでせうか。

 因に、此先の市ノ堀用水に架橋されてゐた痕跡、拙には分りませんでした。

 昭和廿二年の航空冩眞を見れば明白なのでありますが、すつかり變貌して仕舞つてゐと云つた鹽梅であります。

 其と、押上小學校内の線路跡や長久保驛跡でありますが、さうだつたと云ふだけに等しい感じ、と云ふ處でせうか。
 【現在地】

 次いで、和光堂近邊であります。

 此邊、若くは若干東寄りの邊で草川を渡河してゐたと云はれて居ります。

 して、此方の道は和光堂が出來た昭和五十年頃に新設された道でありますので勿論線路跡では御坐いませんが、さう、丁度ビニルハウスの間を拔て、 先に見える屋敷森の右端の方に向つてゐたと云ふのが正解の樣であります。

 因に、元の町長さんに御話を伺つた處、附近の田圃の圃場整備をしてゐた時に、當時の橋脚の殘骸が澤山田圃の中から出土したとの事でありました。
 而も其が全て木製だつたさうでありまして、小規模な橋は先づ木橋だつた樣であります。

 さう、其と、昭和初期迄の草川は、河川改修が成された現在の位置とは流れの位置が違ひますので、痕跡が皆無なのも納得でありますし、 多分左岸側からでせうが、橋脚跡が出土したと云ふのも納得であります。

 何故なら、其處が元からの草川の位置だつたのでありますから。
 【現在地】

 して、此屋敷森にほぼ添ふ樣に進んでゐた樣であります。

 正確には手前側の屋敷の中を通つてゐた樣でありますが、當然個人宅でありますし、見學の許可を戴くのも若かしますと毎度の事と成つてゐては迷惑と思ひ、 其處迄は致しませんでした。
 【現在地】

 扨、今囘此處で一番の見所でありますのは、此元の火見櫓の土臺であります。
實は之が元の線路跡なのださうであります。
と云ひますか、餘つてゐた線路跡の用地を利用して火見櫓を建てたと云ふのが正解でせうか。

 勿論、地元の方から聞きました話でありますので、間違ひ御坐いません。
 振返つて見てみました。

 此位置から斯う見た感じで眞直ぐ蒲須坂方面に向つてゐたと云ふのが御分り戴けるでせうか。

 して、實際に蒸氣機關車が走つてゐた當時でありますが、屋敷の本當に眞後を通つてゐたさうであります。

 如何にも明治期らしい、權威的と云ふか非人權的と云ふか、何か納得して仕舞話でありました。

 此處は廢止に成つて手荒く良かつたでありますね。呵呵

 【其二】に續く。

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