鹽原町中鹽原 明神橋

2677年 6月 20日 探訪

 此方は 【鹽原町鹽原 八汐橋】 依り二キロ程箒川を上つた處に架る橋であります。
其手前にも二本架つて居りますが、取材對象依り新しいと判斷した爲取材して居りません。

 扨、手前と云ふか下流側の橋が二徑間で架つてゐる物が多いにも不關、此方は明かに橋脚が多いなと以前から思つてゐたのでありますが、 中々訪れる機會が無く、やつと來られたと思ひましたら御覽の樣に改修後に成つて仕舞ました。

 尤も、以前から老朽化してゐたであらう橋でせうし、震災でもアレだつたのでせうから早急な對應が必要だつたでせうし、 何依りも安全と橋自體の延命が大切でありますから當然と云へば當然の結果であります。

 と云ふ事は措いとゐて、不取敢此方左岸側から見て行きます。

 因に、以前は自動車も通行出來た樣であります。
 箒川。

 手荒く立派な親柱に之は何だらう、琺瑯引なのでありますかね、其共單に塗裝仕上なのでせうか、さう云ふ銘板に黄色の塗料で文字が書かれて居ります。

 して、斯う云ふ銘板つて後年、其はしつかりと其年代の物件に附てゐるのを見附たから斷言しても良いと思ふのでありますが、 昭和四十年前後頃に後から附られた銘板だらうと思はれる物であります。

 多分、元からの銘板は物資供出で消失してゐるのだと思ふのでありますよね。

 併し此類の銘板は後年に成ると判讀困難に成つてゐる物が多いので、拙は好きでは御坐いません。

 まあ、年代判定の材料としましては有難いでありますが。呵呵
 明神橋。

 ほら、斯う云ふ具合に錆て來てゐる場合が多いのでありますよね。
他の代表例としましては 【上河内村下小倉 叶橋】 【益子町下大羽 大羽橋】 邊でせうか。

 併し笠石から何から立派な親柱であります。
 横から見ますと五徑間の橋であります。
唯、之では混凝土桁が如何なのか判斷出來ませんね。

 併し、左岸側の一個だけ橋脚の形が違ふのでありますが、之は若かしますと舊橋の物を其儘利用してゐると云ふ事でせうか。

 途中に段差が附てゐる事も謎であります。

 では右岸側へ移動致します。
 此方側の親柱は撤去されて居ります。

 して、そこに古一型ガアドレイルが在ると云ふ事は、結構以前に撤去されてゐるたと云ふ事でありますね。

 多分自動車の往來の邪魔に成からだらうとは思ふのでありますが、一寸勿體無いでありますね。
 下流側には親柱は在るのでありますが、銘板は取附られて居りませんでした。

 と云ひますか之、物資供出等では無く、元から銘板は附られてゐ無かつたのでせうか。
かと云つて混凝土に直接文字が彫られてゐた譯でも無ささうでありますし。
 斯うして見ますと、混凝土の質感や形等から、竣功當時の儘の橋脚だと云ふ事が分ります。
左岸側の一本は除いては、でありますが。

 其と、左岸側の橋臺でありますが、後から色々附足されてゐると云ふ事が分ります。

 唯、昭和廿二年の航空冩眞では、現在と同樣に兩眼側が廣く成つてゐる桁で冩つて居りますので、竣功當時の姿の儘である事は間違無いであります。

 と云ふ事は、橋臺も基本的には舊橋の物を再利用してゐるのでは無いかと推察する次第であります。

 此方右岸側の橋臺も色々とアレさうでありますね。
 右岸から上流側を見てみました。
【眞岡市島 御前橋】 の樣な桁の形状に成つてゐるのが御分り戴けるだらうか。
と云ふ事は、混凝土T字桁、而も戰前物件と云ふ事は確實かと思はれます。

 其と、左岸側の橋臺でありますが、必要以上に桁が載る部分が外に出てゐる樣に見えますので、舊橋の物が流用、と云ひますか、其を元にして現在の橋に合はせてゐるのだらうと思はれます。

 と云ひますか、左岸側の桁だけ何か違ふ樣に見えますので、若かしますと桁も舊橋の物を流用してゐる、若くはさう云ふ形式で架橋後、水害等で流出し、 殘りの桁と橋脚を新規で作り直してゐるかの何方かかと思はれます。

 因に竣功年でありますが、中日本建設コンサルタント樣のPDFフアイル『川を渡る橋・栃木縣』で分つたのでありますが、昭和十五年の物件でありました。

 まあ、其が分つただけでも良かつたでありますが、出來れば此儘殘つてゐて欲しいなと思へる物件でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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