眞岡市島 御前橋

2674年 5月 19日 探訪

 此方は 【眞岡市東郷 穴川橋】 依り直線距離にして約一キロ程下つた處、栃木縣道二五七號線の舊道側、穴川に架る橋であります。

 實は左手のガアドレイル側の道から來ましたので、既に横からの姿は眺めてゐるのでありますが、之は結構な年代物の橋であると確信して居ります。

 まあ、眞正面から見ても各部の意匠の凝方からしまして、想像に難く無いと思ひます。

 では此方、右岸側から見て行きませう。
 穴川。

 ううん、手荒く字體が素敵であります。

 其と之、銘板が附られてゐるのでは無く、奧まつた河川名の部分が讀易い樣白く塗られてゐるだけでありますよね、多分。

 と云ふ事は、昭和一桁、若くは昭和十年前後頃迄の物件と見て良ささうであります。
 御前橋。

 嗚呼、當然乍此方も字體が素敵過ぎます。

 此方の親柱は比較的綺麗な状態を保つてゐると思ひきや、殘念、上部の飾りが無く成つて居りました。
 高欄は如何にも戰前物件と云ふ意匠であります。

 其に若干の太鼓橋具合も其つぽいと云ひますか、雰圍氣御坐いますよね。

 思つた程には舖裝が盛られてゐ無さうなのも好印象であります。
 嗚呼、何と素敵な橋なのでせう。

 橋臺から親柱、橋脚に桁も高欄も、全てが凝つた意匠、造形でありますよ。
素晴しい。

 拙は特に橋脚の素晴しさに見惚て居りました。

 して、さう、橋脚でありますが、 【眞岡市東郷 穴川橋】 の古い方にも何と無く通ずる樣な氣が致しませんでせうか。
 高欄の柱に成る部分の凝つた造形、其高欄自體の上部の緩い曲面等も見てゐて飽きません。

 尚、橋全體に亙り洗出仕上が成されて居りました。

 では、左岸側へ移動致します。
 あな川。

 何故に川だけ漢字なのかが謎でありますか、此程度の漢字、誰でも讀めるだらうと云ふ事なのでせうか。

 と云ひますか、多分今程に「かは」「がは」の讀みに對する拘りが無く、夫々に讀めば良いと云ふ事なのでせうか。

 まあ、意味が通じれば如何でも良いと云へば其迄でありますしね。呵呵

 不取敢美しい字體であります。
 御前橋。

 ううん、矢張牀版、舖裝が乘つてゐ無ければもつと素敵だつたのでありますがねえ。

 併し道筋的には明治時代の名殘は餘り無く、昭和十五年の地圖で現在の姿でありますから、此御前橋が完成した頃に線形改良成されてゐると云ふ事だと思ひます。

 何か、「はし」でも「ばし」でも何方でも良いでは無いかと思ひましたが以下省略。

 因に、排水桝は御坐いませんでした。
 して、竣功年度は不明だらうなと思つてゐました處、ごせんはしと記されてゐる親柱の横に在りました。

 昭和十年一月竣功であります。

 嗚呼、良いでありますなあ戰前物件。
而も舊道落ちに成つた御蔭か、未だ未だ現役でありますもの。

 とは云へ、罅が手荒く多い樣でありますので、最早滿身創痍なのかも知れません。
 高欄の途中の柱の部分の飾りが壞れてゐて、鐡筋が見えました。
成程、斯う云ふ鐡筋の組方をしてゐるのでありますね。

 と云ひますか、此橋の場合、鐵筋同士つて如何遣つて繋いでゐるのでせうか。
針金らしき物も見當ら無いのでありますが。

 併しまあ、當り前に實用に供されてゐる戰前物件つて良いでありますね。
拙は土木遺産云々依りも、斯う云ふ橋の方が好きであります。
さう云ふ點で、良い物件見る事が出來て手荒く滿足であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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