喜連川町上河戸-下河戸 舊中橋

2678年 11月 19日 探訪

 此方は 【喜連川町下河戸 宮下橋】 依り一キロ六百米程上つた處、且つ現在の橋依り五十米程栃木縣道廿五號線側に進んだ處に架る、と云ふか其儘殘された橋であります。

 此邊の江川が改修され度のが昭和四十年代に入つてからでせうから、其以前から架つてゐた橋と云ふのは自明の理でありますが、 念の爲現在の中橋も確認しようとした處此方を發見致しましたので、慌てて自動車を止て撮影した次第であります。

 因に、現在の橋は學校橋と云ふ名稱に成つて居りまして、平成五年竣功でありましたので取材對象外でありました。

 扨、と云ふ事で多分此方も中橋と云ふ名稱だつたらうと推察しての表題に致しました。

 して、道路中央から左側が上河戸地區、右側が下河戸地區であります。
 現在の道とは微妙に位置が違ふ爲、上流側の地覆は綺麗に削られて居りますし、綺麗に舊河川は埋られて居ります。

 併し。何故に橋は其儘殘されたのでありますかね。
 二徑間の混凝土牀版橋であります。

 して、何時頃の物件だつたのか氣に成りますので、如何云つた橋脚に成つてゐるのかで確認し度いと思ひます。
 パイル形式とは違ひますね。

 して、航空冩眞に解を求め度のでありますが、昭和廿三年の冩眞で、何か此方の橋迄の道が綺麗に成つてゐるのが確認出來ました。
と云ふ事は、昭和廿二、三年に混凝土で架橋された物件と云ふ事なのでせうか。

 正直、戰前と斷定するには混凝土の打方が綺麗過ぎると思ふのであります。
 多分壞すには未だ新し過ぎるので、だつたら其儘埋て道路として活用した方が合理的と判斷されて斯う成つたと思はれるのでありますが、 其御蔭で此儘歴史の證人に成りさうでありますね。

 何時頃壞れて仕舞つたのか分りませんが、壞れた地覆も又、歴史的な一部に成つたと思はれます。

 併し、 【大田原市瀧岡 大澤橋】【宇都宮市駒生町 大橋】 に續き道路と化した橋は三本目でありますが、斯う云ふ物件を探して見るのも面白いなと思つた次第であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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