宇都宮市駒生町 大橋

2677年 9月 26日 探訪

 此方は 【宇都宮市駒生町 鎧川橋】 依り六百米程南下した處に架る、と云ふか架つてゐた、と云ふか、不取敢陸に成つた今も其儘殘されてゐる橋であります。

 まあ、橋だつたと云ふ表現の方がしつくり來るのかも知れませんが、其處には色々な事情が在る事でせうから、後程推察し度いと思ひます。

 因に、現在の鎧川の橋は、目の前、廿五米程先に見えるアレであります。

 何かですね、さう云ふ雰圍氣が此方 【大田原市瀧岡 大澤橋】 に似て居り哀愁を誘ふのでありますが、他にも斯う云ふ状態の橋つて在るのでせうか。

 まあ、此方は如何なのか、不取敢此方右岸側から見て行きます。
 親柱は無く、角柱の古初代ガアドレイル高欄が取附られて居ります。

 とは云へ、何か其袖ビイムの下に御坐いますね。
 鎧川。

 えゝと、之は親柱とは云へ無いのかも知れませんが、河川名が彫られた柱でありました。

 うむ、若かして結構古物件なのでせうか。
 四月吉日。

 「吉」が異體字の「つちよし」に成つてゐると云ふ事は、流行したのが昭和卅年代頃でしたでせうから、其前後頃の物件と云ふ事でありますかね。
 因に、上流側の眺めは斯うであります。
 下流側はすつかり田圃に成つて居ります。
 右岸下流側には何も御坐いません。

 では左岸側へ移動致します。
 おおはし。

 お、此方側には柱が御坐いました。
平假名で「おおはし」と云ふ事は、漢字表記で「大橋」で良いのでせうね。
 昭和四十三年。

 嗚呼、成程。
何か全てが納得と云ふ感じであります。
 對岸に向つて左側に其々柱が在ると云ふ事なのでありますね。

 まあ、關係無いでありますが、完成された現在の袖ビイムとの形状の違ひが良く分りますね。
 横から見ました處、之は牀版橋と云ふ形式でありますね。

 扨、竣功年は分りましたが、では一體何時頃に河川の附替に成つたのか、航空冩眞を頼りに調べて見ました。
さう致しましたら、何と廿一世紀迄此方が現役の河川だつた樣であります。

 さう、平成十二年以降平成廿二年迄の間に河川改修、附替が行はれた樣でありました。

 では何故斯樣に殘された儘なのかでありますが、其は多分豫算の都合なのでは無いでせうか。

 多分今迄でありましたら撤去後普通に道路にされてゐると思ふのでありますが、昨今の事情から其處迄豫算が出無い、 だつたら其儘道路として供用してゐれば良いと云ふ判斷だつたのでは無いでせうか。

 でありましたら實に面白い物を殘して呉れたのでは無いでせうか。

 まあ、何れは道路擴幅とかであつさり消えて仕舞と思ひますがね。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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