氏家町上阿久津-馬場 國道四號舊道(陸羽街道) 【其二】

2673年 8月 20日 探訪

 【其一】からの續きであります。

 【現在地】

 此方、右手に見えますのは將軍地藏、又名を素麺地藏と云ふ御地藏樣が祀られてゐる、のかな、其御堂が在る處であります。
素麺地藏は栃木の民話としても有名でありますので、檢索して見ると色々出て來ると思ひます。
まあ、民話でありますから本當かいなと思ふのはアレと云ふ事でありますが。

 因に、拙は敷地を見ただけでアレでありますので入つた事が無い、否、一度だけ入つた事がありますかな、 でもええ、まあ、もう、雰圍氣がアレでありますので、誰かがアレな場所だと云ふのは本當かも知れません。

 して、此森の終り邊、と云ひますか、木々の竝びで大凡御分り戴き度いのでありますが、此處から奧州街道は斜右に折て此段丘から氏家地内方面に下つて行くのであります。
が、此冩眞では分り辛いでせうか。
 斯うして見ると、不自然に空いてゐる三角形の土地が御分り戴けるだらうか。

 さう、此處が氏家宿方面に向て臺を降る奧州道中との分岐點であります。

 唯、工場の敷地内でありますので、其方を見るには一定の手續きが必要な事でせう。
 して、奧州道中は工場内に見える電信柱の邊を掘割と云ふか切通しと云ひますか、地面を開鑿して降つて行きます。

 對して陸羽街道側は、多分之、餘り斜面を開鑿した樣な感じには見えませんので、或る程度は下の土地に盛土してゐるのかも知れません。
 うん、斯うして左側の斜面を見ますと切土と盛土が其々と云ふ感じでありますかね。

 して、歩道の幅が不揃ひなのと、側溝の作り方がアレでありますのは、大人の事情が垣間見られる當時仕樣と云ふ事なのでせう。
多分。

 因に、此邊の左手は宇都宮藩の出城だつた勝山城址であります。
堀の跡が昔は丁度良い遊び場でありました。

 因に、銀色の自動車が右折する方向に奧州道中が降つた來た處が見られますので、一寸だけ覗いて見ませう。
 【現在地】

 はい、之が奧州道中であります。

 昭和卅六年に日華ゴム(現月星化成)の敷地と成つた後もずつと殘された儘に成つてゐると云ふのが素敵な事だと思ひます。
 唯、正直幅員が何れ程だつたのか迄は判斷附難いと云ふ感じでせうか。

 嗚呼、出來れば此處、歩つて見たいであります。
 其先で現在の國道四號を横斷して進むのでありますが、奧州道中は手荒く有名でありまして、何處でも遣つて居りますので割愛致します。
 と云ふ事で、勝山の臺から降つて來ました。

 が、此處から何故か歩道が少し狹く成るのが一寸寂しいであります。
 して、一旦現道と合流するのでありますが、勿論直交合流でありますので、嘗ての痕跡を見るのは困難であります。

 と云ふか、最早すつかり變はつて仕舞つてゐると云ふか丸で別物と云つた方が適切かも知れません。

 併し其直前の歩道部分、最早側溝と縁石程度の幅員しか無いのは嚴しい處であります。

 之、今では交通量が格段に減りましたから良い樣な物の、現役時代でありましたら讓り合ひ必須、 且つ絶對に歩道から食出る事無く通るのは大變だつたのでは無いでせうか。
 さう、本來でありましたら眞正面に眞直ぐ進むのが元々なのでありますが、路盤自體はすつかり別物でありますね。

 當然、現在では途中に在る住宅の爲の接續道路の意味合ひなのでありますが、勿論、たつた數分の信號も待つてゐられ無い不躾專用の拔道でもあります。

 のんびり行けば、斯う云ふ御寳眺められると云ふ御襃美が有るのでありますが。
 まあ、之だけ高低差が出來て居りますので元の痕跡は完全消失と云つても良いのだと思ひます。
 で以て、合流してから直ぐ、川岸交叉點で再び分れます。

 勿論舊道は右折でありますが、右折した側の此國道二九三號が、元々の國道四號制定時には其陸羽街道の役割を擔つてゐたと云ふさうであります。

 案外一氣に整備された譯でも無い樣でありますね、陸羽街道。

 【其三】に續く。

戻る