2680年 4月 28日 御負

 【藤原町川治 釜橋】 から百五十米程北進した處、橋、澤共に名稱不明な上暗渠扱ひの爲御負にて紹介。

 自動車で走つてゐる分には何も感じ無い道路でありますが、實は手荒く急峻な斜面に作られてゐるのであります。
 上流側は此程度の隙間でありますが、
下流側は斯樣な状態であります。

 多少は流れを緩和する樣整備されてゐるのでせうが、其以前に良くまあ此な崖に道路を通した物だなと感心する次第であります。

 場所は別でありますが、實際に似た樣な處に道路、橋梁建設に携はつた方に御話を伺つた處、もう測量から何から、途方も無く大變だと云ふ事であります。

 其はさうでありますよね、此處だつて、如何見ても道路通す處に見え無いでありますもの、實際。

 ま、斯う云ふ工事關係者の方々の苦勞が有るからこそ、彼方此方自由に往來出來ると云ふ事でありますね。
 藤原町川治-藤原、有名物件五十里ダム。

 見た場所は先程の暗渠から若干北側であります。
 して、道路から下を見ると謎の遺構が在るのでありました。
 冩眞一枚に納め切れ無い程の平場と何か基礎の跡、であります。

 五十里ダム建設工事に伴ふ何かの跡なのでせうが、何でせう。
 其北側にも、何かの基礎が殘つて居ります。
 此四角い物は近年の物でせうか。

 と云ひますか、何か圓形の物が御坐いますね。
 之も一體何の跡なのでせう。

 五十里ダム工事報告書、若くは五十里ダム工事誌でも見れば分るのでせうが、ネツトだけでは調べきれませんね。呵呵
 藤原町五十里、高木六左衞門氏の墓。

 元在つた場所は閉鎖された爲か、此方の公園に移設されて居ります。
今でも獻花が絶へ無い處を見ますと、地元の方からは手荒く慕はれてゐるのでせう。

 と云ふか、未だ居ります。
 同、説明文。
 同、 【藤原町五十里 仏の沢橋ト舊橋跡】 の一寸先、道路脇に竝んで置かれたドラム罐。

 一體何時頃から在るのでせうか。
 同、今依りも川牀に近い佛ノ澤橋近邊の舊線形部分。
 其切通の上に鎭坐しまする地藏尊。
 同、其説明文。

 矢張舊五十里湖が何れ程の災禍だつたのかゞ伺ひ知れる今囘の道程でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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