矢板市長井 宮川橋

2675年 12月 15日 探訪

 此方は 【矢板市下太田 下太田橋】 依り栃木縣道二七二號線を二キロ程西進した邊の左手、宮川に架る橋であります。

 まあぱつと見に鞍馬の樣な高欄、如何にも擴幅されたと云はん許の繼目等から、元々は結構な年代物と思はれるのでありますが、其實態は如何でせうか。

 其では此方、右岸側から見て行きます。
 みやがわばし。

 中々に素敵な字體であります。
之は發注者の首長が筆を奮つた銘板なのでせうか。

 併し其だけでは無く、親柱自體の意匠も、一見簡素乍實は隨分と凝つてゐる樣に感じます。
 う、讀めません。
 ちえすと。
 何か、其でも讀めませんでした。

 まあ、多分"宮川"若くは"宮川橋"では無いかと思ふのでありますが、まあ、ええ。
 高欄は鞍馬型でありますので、多分に昭和四十年代初頭の物では無いかと推察致します。

 併しまあ、見事な擴幅振りであります。

 勿論、元の位置に親柱の痕跡は御坐いませんでした。
 元からの桁側の排水桝であります。

 では、左岸側へ移動致します。
 宮川橋。

 元からの親柱だからでせうか、銘板共に經年相應の物を感じます。
 みやがわ。

 何かね、此取つて附た感がする親柱が良い雰圍氣であります。
 序でに桁を見ましたら、昭和四八年三月竣功でありました。
 して、まあ、之なら擴幅した方の桁がさうなのだと納得なのであります。

 唯、本來でありましたら發注者側に向く筈であります工事銘板が逆側を向てゐると感じましたので、下流側の桁も確認して見る事に致しました。
 でありますが、此方側には當然の樣に工事銘板が御坐いませんでした。

 當然の樣に桁の色が違ひますし、橋臺も上流側に附足したのが見て取れますので、元々の竣功年度が氣に成る處であります。

 處が、國土交通省の橋梁點檢結果を見ますと、此方の竣功は昭和四八年なのであります。
否、之は如何見ても元々の部分はもつと古いと思ふのであります。

 さう、 【鹽谷町舟生 寺小路橋】 の樣に昭和四一年前後に元々の部分が竣功し、其後四八年に成り擴幅部分が竣功したのでは無いかと思ふのであります。
さうでありましたら鞍馬型の高欄にも納得なのでありますが、全體に四八年竣功でありましたら、斯樣な鈑橋でありましたら、 少く共高欄は古三型ガアドレイルに成つてゐるのでは無いかと思へるからであります。

 まあ、其な謎を含みつつ、否、含んでゐるからこその面白い物件かなと思ひました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

戻る