矢板市下伊佐野 金精橋

2673年 7月 30日 探訪

 【矢板市上伊佐野 晴昿橋】 を見た後に、多分同じ樣な年代の橋が何處かに在ると思ひ内川を遡つて見ましたが叶はず、では歸らうかと思ひ通り掛かつた途中に今囘の橋を見附ました。
と云つても御覽の通り高欄は可也草に埋もれて見辛い状況でありまして、一旦通過した後に橋だと氣附て戻り、改て冩眞を撮つた次第であります。

 併し此方の橋、小振り乍も幅員はしつかりと取つて有りまして、丸で幹線道路としての造りの樣にも感じられます。

 では此方、左岸側から見て行きます。
 金精橋。

 何時の間に拙は奧日光へ來たんだつけ、と思はず考へて仕舞ひましたが、金精と云ふ名稱つて案外一般的なのでせうか。
例へば河内とかの樣に。

 併しまあ、斯う云ふ上流部でもしつかりと河川改修の手は入つてゐるのでありますね。

 因に、奧に見えるのは山女魚だか岩魚の養殖場だつたと思ひます。
 こんせいばし。

 本探索の時はニコンを使用しまして、其時實は手拔きして長靴履いてゐ無かつたので、薮に隱れた此親柱は銘板が不撮仕舞ひでありました。

 して、今囘もニコンで撮影と思ひきや、現地で電池切と云ふ素敵な状態でありましたので、何時ものサイバアシヨツトでの撮影であります。

 と云ふ事で、何れが何れとは書きませんが、其々の冩眞の表現、見比べて見て下さい。
時刻はほぼ一緒でありますので、多分違ひが分ると思ひます。

 と云ふ事は如何でも良いでありまが、ちやんと濁りと云ふ日本語を大切にしてゐる讀みに好印象であります。

 では右岸側へ移動致します。
 金精川。

 金精川は何だと思ひましたら、内川の支流の一つなのでありますね。

 併し此處、親柱の前の草を長靴で踏んだり避け度りして撮影した譯でありますが、實は路盤から親柱に掛て結構土砂が削れてゐたと云ひますか流れてゐたと云ひますか、 下手すれば川に落ちるのでは無いかと云はん許の急峻さでありました。

 正直、結構怖かつたでありますよ、實際。
 昭和三十年三月架設。

 此は思つてゐた依りも古い物件でありました。
てつきりも少し後年で昭和卅二、三年頃から卅七年頃迄の間邊だらうと思つてゐたものでありますから。
て、何と云ふ狹い範圍の推定と云ふ事に成つて仕舞ひますが。

 併し、さう成りますと、案外早い頃合から治山事業とかで河川も整備されてゐるのでありますね。
と成りますと、其以前の橋を見たいと云つても相當難しい事に間違ひ無いと云ふ事でありますかね。

 嗚呼、現役の木橋見たいと思つても可也無理さうでありますかね。
 横から見ますと、うゝん、何共云へ無いでありますかね。
多分スラブ形式とか單純桁と云ふ形式の樣な氣も致しますが、厚みからしまして、T字桁の樣な氣がし無いでも無いのであります。

 唯、竣功年度を考慮致しますと、此頃のT字桁橋つて牀版依り奧まつた位置に主桁が在る物が多く見掛ますので、此方は、ねえ。

 其依も、結構山を上がつた所だと思つたのでありますが、水道が通つてゐるのが意外でありました。

 地下水とか湧水の方が美味しい樣な氣がするのでありますが。
 見辛いかも知れませんが、上流側は結構素敵な澤と云ふ感じであります。

 併し此方の高欄、雰圍氣が此方の 【名稱不明橋】 と手荒く似て居りますから、若か致しますとほぼ同年代、と云ふ事でせうか。
 下流側も何か、一寸澤遊びをし度く成る樣な綺麗さに見えました。

 正直、彼の階段から川面に降りて見たかつたのでありますが、其處へ行く迄が結構薮でありましたので、不取敢止て措きました。

 併し斯う云ふ山間部にも斯う云ふ年代で架られた物件が更新される事無く殘つてゐたと云ふ事に驚きました。
而も架橋當時から結構な幅員を有してゐたと云ふ點でも驚きでありましたし。

 まあ、近くに山縣有朋記念館が御坐いますので、さう云ふ關係とか何か色々と有るから、なのでありますかね。

 まあ、利便性が良ければ何でも良いのでありますが。

 以上、御附合有難う御坐いました。

戻る