矢板市上伊佐野 晴昿橋

2673年 7月 30日 探訪

 暇な時は航空寫眞を見てゐるのが樂しいでありますね。
色々な川を遡つて見てゐれば、如何にもな感じの橋が發見出來ますから。

 と云ふ事で、内川を遡つて見てゐましたら、前後の道路に對して狹い儘の橋を發見しましたので行つて見ました。
之は明かに古い橋だらうと思ひまして。

 して、御覽の通り矢張、と云ひますか、自動車の往來を考慮し無ければ今でも十二分に立派な橋でありました。
と云つても、栃木縣道卅號線依り入る事約二キロ強。 交通量云々の場所では無い事確實だとは思ひますが。

 扨、では如何な物か此方、左岸側から見て行かうと思ひます。
 内川。

 實は此銘板を見る迄、此處が内川の儘だとは思ひませんでした。
だつて、矢板市内で見るのと雰圍氣全然違ひますし、地圖では此處は木芽澤と書かれてゐたのでありますから。

 とは云へ此處は上流部。
違くて當然と云へば當然でありますし、後年に成つてから改名されてゐる可能性も御坐いますから、何共云へ無いと云ふのが本當の處でせうか。
【太田堀橋】 の樣な事例も有りますから。

 併し親柱の状態が手荒く良いであります。
缺けは此一部分だけの樣でありますし。

 まあ其だけ交通量は御察しと云ふ處だらうとは思ひますが。
 晴昿橋。

 正直、現地では二文字目がきちんと判讀出來ませんでした。
して、寫眞を良く見ました處、「昿(クワウ)」と分かりました。

 併し滅多に遣は無い漢字だなあと思ひ調べました處、矢張りJIS第2水準(比較的使用頻度が低い地名や人名などに用いられる3390字)と云ふ括でありました。

 と云ひますか、漢字の偏や旁つて案外當字的な部分つて多いのでは無いでせうか。
例へば魚の名前の樣に。
 高欄は桁毎に分割されてゐる型であります。

 併し面白いのが、鐡管を使用してゐる場合でも、上下二本の物は數多く見るのでありますが、斯う云ふ具合に三本で構成されてゐるのは初めてかも知れません。
而も下側の二本が細いと云ふのも其特徴でせうし。

 と云ひますか、結構御金掛つてゐますね、此方の物件。

 まあ、道筋的には明治の地圖にも載つてゐる位でありますから、其位しても當然の道なのでせうね。

 では、右岸側へ移動致します。
 昭和三十三年十二月架設。

 意外と新しいと云ひますか、良くぞ無事に殘つてゐたと云ひますか、今では案外判斷が難しい微妙な年代かも知れません。

 多分、交通量が多ければとつくの昔に架替られてゐたのでは無いかと思ひます。
此處だけが狹窄區間でありますし。

 因に、先代橋の痕跡は皆無でありました。
 せいこうばし。

 まあ、廣々と、とか明るく晴渡つたと云ふ樣な意味合で命名されたのでせうね。
多分。

 併し之が「せいくわう」とか書かれてゐたら感涙物だつたのでありますが、昭和卅三年竣功では先づ無いでありますね。

 さうさう、曠と云ふ字、日偏だけでは無く土偏の壙でも同義語なのだとか何とか、だつたら別に廣だけで良いのでは無いかと思つたのでありますが、 だからJIS第2水準と云ふ事なのでありますね。

 まあ良いや。

 併し綺麗な親柱であります。
 横から見ますと、二徑間の混凝土桁橋であります。

 之は多分T字桁と云ふ種類でありますかね。
他の昭和卅年代物件と同樣、牀版の端からは奧まつた處に主桁が有る形でありますね。

 但し、橋脚はパイル形式では無い邊が上流部の爲でせうか。
 御覽の樣に砂防指定地でありますので、土石流、と迄は行か無いにしても、大きな石等が流れて來た場合の強度を考慮しての橋脚だらうと推察した次第であります。

 して、青い看板の方には「ほたるの里」と書かれて居りました。
此邊では、きつと澤山の螢が見られる事なのでせう。

 併し砂防も大切でありますが、砂濱以下省略。

まあ、勿體無いでありますから、良き時代其儘の此方の橋、此儘殘つてゐて呉れると素敵だなと思ひました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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