小山市田川 舟戸大橋

2680年 12月 1日 探訪

 此方は 【南河内町下坪山-上坪山 坪山橋】 依り九百米弱程田川を下つた處、田川放水路に架る栃木縣道卅五號線の橋であります。

 と云ひますか、此方可動堰に附帶する橋でありまして、此處で田川の舊河川と放水路に分岐させてゐると云つた方が良いのでせうか。

 扨、ぱつと見に其也の年代だと云ふのは想像に難く無いでありますが、其實如何でせうか。

 と云ふ事で此方、左岸側から見て行き度いと思ひます。
 田川放水路。

 丸で混凝土塊團を積んだ樣な、且つ灣曲した意匠が特徴的な親柱であります。

 横書の銘板の割には縱方向が意外と幅廣であります。
 舟戸大橋。

 塊團の樣な幅、三分の一づつ小さく成つて行く感じでありまして、最終的に笠石の樣に成つてゐると云つた處でせうか。
 高欄は鞍馬の樣な意匠の物が使用されて居ります。

 上部は後年に成つてから附足されてゐる樣であります。
 排水桝。
 横から見ました處、二徑間の鈑橋でありました。

 では右岸側へ移動致します。
 FUNADO OHASHI.

 何と、羅馬字表記でありました。
成程、だから縱方向に廣かつた譯でありますね。

 でも何故に羅馬字表記なのでせう。
而も正直、假名を表すなら正確には"O"が一つ足り無い、若くは"OH"が足り無い樣な氣がし無いでも無いのでありますが。
 TAGAWA HOSUIRO.

 まあ、えゝ。

 さうさう、横のガアドレイルから察しますに、昭和四四年頃か四五年頃竣功でせうか。
 因に上流側から見ますと、斯樣な感じで可動部と直結して居ります。

 因に、橋梁點檢結果を見ますと竣功は昭和四五年でありました。
而も昭和四三年の航空冩眞では工事が開始されてゐる形跡は御坐いませんので、二年不掛に之だけの物、河川を完成させ度と云ふ事でありますね。

 可也以前、 【宇都宮市三番町、天神一-南大通一、二 洗橋】 にも斯樣な可動堰の機械室が在つたなと思ひ出し乍觀察致しました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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