宇都宮市三番町、天神一-南大通一、二 洗橋

2674年 1月 14日 探訪

 恐く、今現在宇都宮市内の田川に架る橋では一番特徴的な橋では無いかと思ひます。

 國道一二三號の起點である國道四號との交叉點、平松町交叉點からの延長で西進する水戸街道が元々だらうと思ふのでありますが、 結構後年迄餘り整備が進んでゐた道では無い樣に見受られるのであります。
實際、此橋が出來る頃に成り、やつと道路整備に着手されたと云ふ樣に航空寫眞では見受けられるからであります。
其からなのでありますかね、南大通りやいてふ通りと呼ばれる樣に成りましたのは。

 因に、舊橋と讀んで良いのか如何か難しい處でありますが、其方は柵の奧の方、廣い影が在る邊から放水口の邊に掛て、一車線かも少し廣い程度の幅員で架つてゐた樣であります。
勿論、今現在依りも低い位置だつた事でせう。

 併し、橋全體からしますと橋脚の位置が變だと云ふ事が御分り戴けるでせうか。

 では此方、左岸側から見て行きます。
 實は左岸側の橋臺は橋の途中に在るのであります。
而も其では流れを阻害して仕舞ますので、何と刳貫かれて隧道状態に成つてゐるのであります。

 但し、實は未だ之でも左岸側の全景は寫眞に收まつてゐ無いのであります。

 と云ひますか、まあ、ええ、如何やら有效活用されてゐる樣であります。
 さう、昔は斯樣な混凝土の護岸がずつと續いてゐたのであります。

 其なのに鐡柵に交換されて仕舞つて居りましたので、之を見た時には嬉しく成つて仕舞ひました。
 隧道部分との繼目でせうか、縱に罅が見受られます。
 橋臺部分であります。

 下に降るのが面倒でありましたので上からでありますが、内部の混凝土の型枠の跡とかの具合、結構はつきりと分るんだなと云ふ感じであります。

 尤も、元々遊歩道では無く、田川の流れを通す爲の目的だつたのでせうから、まあ此な物なのでせう。
逆に良い味はいだなと思ひますが。

 正直、上側の方も見てみたかつたでありますが、勝手に御邪魔しては惡いかなあと思ひまして遠慮して措きました。

 鴿、別段逃るでも無く可愛いかつたであります。
きつと、下の住人の方に餌貰つたりしてゐるのでせうね。
 して、此處で右を向ますと、初て左岸側の洗橋の親柱が見えるのであります。

 ええ、實はもう一本、此方は用水堀を渡つてゐるのでありますが、此方側はラアメン構造と云ふのか暗渠と云ふのか拙には分りませんが、 不取敢一體構造に成つてゐる部分であります。
或る意味橋臺の延長部分の樣な扱ひと呼べば良いのでせうか。

 と云ひますか、途中にしつかりと陸地が在ると云ふか着地してゐるのに一本の橋と見做てゐるのは意外でありました。

 此時點では未だ二本に分れてゐるのだと思つて居りましたから、階段を登つて兩側に親柱が在る事を確認した次第であります。

 でありますが、之で一本でありますから、個人的には面白物件確定で大喜びでありました。
 まあきつと、多分、色々と難航したのだらうと思ひます。

 丁度良い徑間の長さを全體で合はせるにもアレだとか、兩岸での高低差がアレだとか土地問題でアレだとかアレがアレでアレアレで、とか。

 して、混凝土桁橋としましては結構一徑間が長い方では無いでせうか。
竣功年度を此時點で書いて仕舞ふのはアレなので書きませんが、混凝土桁と云ふ事や高欄の意匠で大體御察し下さいと云ふ處であります。
まあ多分、PC方式と云ふ處なのだらうと思ひます。

 橋脚も相當に頑丈さうでありますね。
脚に耐震補強はされてゐる見たいでありますが。

 併し此形で流れに對して抵抗に成ら無いのでせうか、
 扨、では大谷石で作られた階段を登り、橋上からの觀察をし度いと思ひます。

 と云ふ事で、右岸側へ移動致します。
 右岸側ほぼ正面からの姿であります。

 後年に成つてから交換されたのか附られたのか、御洒落な街燈が一寸殘念でありますが、まあ仕方が無い處でせうか。

 因に一寸ピンボケ氣味でありますが、撮つた時の條件を考へますと其は變でありますので、所謂アレだと云ふ冩眞だと思ひます。
 洗橋。

 手荒く頑丈さうと云ひますか、意匠的に何と表現したら良いのでせうか、逆に難しいなあと云ふのが個人的感想であります。

 表面に貼つた花崗岩が一枚剥れて仕舞つてゐるのが勿體無いであります。
 田川。

 綺麗だと幾分マシに見えるでせうか。
でも正直、花崗岩の貼合せの線に統一感が無いと云ふか何と云ひますか、實際。
 何か一寸殘念な氣持に成りつつ、不取敢舊橋で渡河した氣分に成らうと思ひ、階段で下に降て來ました。

 でありますが、橋臺部分を横から見て驚いたのでありますが、之、すつかりり罅割て居りますよ。
而も、水平に卷て有る鐡筋が寸斷されてゐるのが見えるのでありますが、之、わやぢや無くて大丈夫なのでありますね。

 其と面白いのが一つ、丁度良い具合に親柱の蔭に成つたのか、右端の手摺の柱、多分元からの塗裝と思はれる白色が殘つてゐるのには感動しました。

 其では再び左岸に向ひます。
 桁と桁の繼目部分にも立派な柱が奢れて居ります。

 但し一寸片一方が哀れな姿に成つて仕舞つて居りますが。

 でも之、經年劣化で剥れたのか震災での影響なのか、將又交通事故での事なのか、如何なのでせう。

 因に、此所洗橋の直上流部には以前可動堰が在りまして、實際に拙も其廢墟の樣な姿を何度も見てゐる筈なのでありますが、 之の寫眞を撮つてゐる時にはすつかり忘れて居りました。
 まあ、事故なのでありましたら、歩行者等卷込れた人が居無いのを願ふ許であります。

 高欄の意匠としましては、正に昭和卅問題から四十年代、西暦1960年代の意匠の代表例と云ふ感じであります。
 橋臺との繼目から左岸側の親柱迄を見て居ります。

 さう、此處からでは一つの桁が在つても不思議では無い樣に見えますが、此處から先は橋臺部分なのであります。

 まあ、だからこそ却つて大變だつたのかなあと推察するのでありますがね。
 あらいばし。

 何故に此處は"あらいばし"と名附られたのでせうか。

 さうさう、左側の配電盤と親柱の意匠の違ひを誰か拙に以下自肅。
 昭和三十五年六月竣工。

 開通當初は二車線だつたのかな、其がきちんと四車線にも對應してゐると云ふ橋を此年代に架てゐると云ふ事が素晴しいと思ひます。

 して、ふと思ひ出したのでありますが、以前の田川つてドブ臭ひ川だつたと云ひますか、だからこそ田川と云ふ印象だつたのでありますが、 今ではすつかり綺麗な流れを取戻してゐる樣であります。

 さう云へば、此近邊だつた〇ード東洋つて未だ營業してゐるのでせうか。
隣が馴染の自轉車屋さんの本店だつたのでありますが、前を通る度に氣恥づかしい感じに成つた物でありましたよ。

 等と、何故か一寸卅年程前の風景を思ひ出させて呉れる橋でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

戻る