2675年 11月 17日 探訪
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此方は
【鹽谷町船生 白石橋】
依り六百米程白石川を上つた處に架る橋であります。 と云ひますか、鬼怒川との合流點から此處迄三本、全ての橋の名前が白石橋と成つてゐると云ふのは如何なのでせう。 何か其々違ふ名前にする樣云々聞いた樣な氣がするのでありますがまあ良いや。 と云ふ事で、此方右岸側から見て行きます。 |
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して、此處の廣場に不用意にガアドレイルが設置されてゐるのでありますが、若かしますと舊橋の跡でも在るのでせうか。 |
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白石川。 如何やら銘板はエツチング加工の物らしく、其處に今では白色が塗られてゐると云ふ状態の樣であります。 と云ふ事は、結構な年代物と云ふ事でせうか。 |
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白石橋。 親柱の意匠は、普通に飾り氣無しの質實剛健な感じであります。 して、縱方向に意外と大きいであります。 |
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高欄は混凝土管を一本使用した意匠であります。 【鹽谷町舟生 山口上橋】 と同樣の意匠でありますから、年代的にも近いのでは無いでせうか。 では、左岸側へ移動致します。 |
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因に、橋の中央部分から上流側を見ますと、川牀は御覽の樣な岩盤と成つて居ります。 |
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勿論下流側も。 何か、凄い眺めでありますよね。 |
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昭和三十四年四月竣功。 成程、西暦1950年代物件でありましたか。 竣功は山口上橋と四年の開きが御坐いますが、同樣の高欄の意匠が使はれてゐると云ふ事は、五十年代後半では定番意匠の高欄と云ふ事なのでありますかね。 併し四月竣功つて、年度とか何だとか下ら無い事氣にしてゐ無ささうで良いでありますね。 |
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しらいしばし。 と讀むのが大變な程に凹んでゐ度りするのでありますが、一體何故に斯う成つて仕舞つてゐるのでせうか。 良く見ますと「し」の字體が古風で良いのでありますが、ねえ。 |
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して、右岸側に戻つて來た處、直横の下流側に何か混凝土の破片が在るのを見掛ました。 而も何か、四角い木柱が殘つてゐる樣にも見えるのでありますが。 |
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他にも何個か同樣の穴が開いてゐるのが確認出來ます。 之は舊橋關連の遺構でせうか。 |
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と思ひ見上げて見ますと、嗚呼成程、其處は橋臺の跡でありますね。 でありますので歸宅後に航空冩眞を見てみたのでありますが、確に現在とは道の直線具合が違ひます。 一枚目の冩眞でも御分りの通り、現在では輕くS字状に成つて居りますが、此方が架橋される以前は、此橋臺跡に向ひ一直線の状態でありました。 如何云ふ譯で却つて面倒な線形にし度のか分りませんが、まあ、多分に木橋だつた先代の經年劣化に因り混凝土橋に架替たと云ふ事でせうし、 其が一番大切な事だつたと云ふ事で、線形のには目を瞑つたのかも知れませんね。 |
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因に横から見ますと、拙の一番大好きな混凝土T字桁でありました。 まあ年代が年代なので當然と云へば當然なのでありますが、此姿が一番混凝土橋らしくて素敵だなと思ふ譯であります。 出來ればずつと此儘で殘つてゐて呉れると良いなと云ふ感じであります。 あれ、左岸側橋臺横の石積は舊橋の橋臺跡でも有るのでせうか。 まあ良いや。 以上、御附合有難う御坐いました。 |