鹽谷町船生 白石橋

2673年 6月 3日 探訪

 日鹽へドライブに通ひ詰て幾年月。
てつきり此處は鬼怒川河川敷に下る道だと許思つてゐたのでありますが、或る日地圖を眺めて居りましたら線形改良部分だと判明し、 其處の橋が古さうだと云ふのが航空寫眞で見て取れましたので、何れ位前だらう、一度夜に友人と下見致しました。

 して、今囘やつと改て探索と相成りましたが、一寸、否、思ひ切り探索の時期も時間も間違へてゐる樣な氣がし無いでも無いですがまあ良いや。
不取敢此方左岸側から見てみませう。

 路面は所々穴が出來てゐる等、少々痛んでゐる樣であります。
 銘板無しに直接親柱に文字を刻んでゐる邊り、昭和十年頃依り以前の橋である事確定だと思ひます。

 但し其所爲で見辛いのでありますが、大正十五年十一月竣功と刻んであります。

 是は凄い、一應現役の大正物件登場であります。
 之は之で見辛いでありますが、白石橋と刻まれて居ります。

 川面は溪谷見たいな感じで素敵でありますが、實は崖なので油斷禁物であります。
 高欄は武骨な樣でゐて、結構凝つた意匠だと思ひます。

 でありますが、現代では子供が轉落する危險云々とか騒がれさうな氣が致します。
以下省略。

 唯、斯う云ふ状態でありましたので、戦時中の物資供出で金物の飾りが取られて仕舞つたのかと思ひきや、さう云ふ痕は無かつた為、元々斯う云ふ意匠だつた様であります。

 では右岸側へ移動致します。
 うう、濟みません、此方は流石に判讀不能でありました。

 まあでも多分、斯う云ふ場合は河川名が書かれてゐるのだらうと思はれます。

 さうだとしますれば、「しらいしがは」では無いでせうか。
 造りがアレでありますので如何にも見辛いのでありますが、平假名で「しらいしはし」と刻んで有る樣であります。
念の爲に現道側の橋を見ましたが、"しらいしがわ"との立札が在りましたから。

 て、今時立札とか云は無いのでありますかね、まあ良いや。

 因に最初の文字は"し"の舊字體と云ふのか何と云ふのか、"志"に近い字であります。
 之。
(昭和十二年の廣辭林依り)

 因に、"し"は助詞とか接尾語で遣ふ見たいでありますよ、正假名では。
多分。

 でも今やパソコンでは「し」しか打て無いので、さう云ふ微妙な表現が出來無いのが殘念であります。

 言葉つて意味を通じさせる爲の物なのでありますが、ねえ。
 此冩眞は、如何にか川面に下りて橋臺や橋脚を間近で見ようと畫策するも斷念した時に撮つた寫眞でありますが、親柱手前の車止が良い味出してゐます。

 併しまあ、一寸アレと思ひつつもアレなので、正攻法では事實上何處からも下りられ無い感じでありました、實際。

 何しろ、何處も彼處も崖でありましたので。
 でありますので、現在の白石橋からの眺めであります。

 橋脚の錐の形が綺麗であります。
其に型枠の線が色を添へてゐる感じであります。

 併し思ふに大正晩年だからでせうか、完全な尖頭形では無く平面部が在る樣に見えますので、半圓形に成る過渡期の作と云ふ事でせうか。
さう云ふ點では意外と貴重な氣がし無いでも無いであります。

 桁の形式は如何なのでせう。
多分に單純桁とかでは無くT字桁と云ふ方式では無いかなとは思ふのでありますが、正直、此處からでは判斷に困ると云ふ感じであります。

 併し大正生れの混凝土橋、當時は永久橋と云はれたのであらうと思はれる物件が未だ殘つてゐると云ふのは素晴しい事であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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