鹽谷町上寺島 共和橋

2677年 4月 4日 探訪

 此方は 【2672年 11月 5日 御負ケ】 の一番目の冩眞、道路元標と道標が在る栃木縣道六三號線との交叉點から約一キロ程、栃木縣道二七三號線を北上した處に在る大名澤に架る橋であります。

 いやあ、もつと上の橋を見る爲に此處は何度も通つてゐるのでありますが、改修に因つて附られた今の高欄を見て、架替られてゐるのだと許思つて居りましたが然に非ず、 如何やらもつと古い年代の物件だつた樣であります。
成程確に親柱は若干減込む樣には成り乍存在して居りますので、多分之は意外と見所有るかも知れ無いと思ひました。

 と云ふ事で、此方左岸側から見て行き度いと思ひます。
 大名沢川。

 澤の後に態々川を附る邊、時代を感じさせて呉れると云ひますか、丸で 【黒羽町須賀川 新市場橋】 とは逆の方向性と云ふ處でせうか。
 して、現在の銘板では「大名沢」のみで、川は附て居りませんでした。
 共和橋。

 良く彼方此方で斯樣な名前を見掛るのでありますが、一體如何云ふ意味で附るのでせうか。

 併し銘板、エツチング加工がされた物の樣でありますので、多分昭和卅年代物件と云つた處でせうか。
 今時の高欄の意匠は斯う云ふ具合であります。
 排水桝は橋の丁度ど眞中邊に一つ、地覆の部分から横に流す型に作られて居ります。

 では右岸側へ移動致します。
 昭和三十五年三月竣功。

 嗚呼、矢張さう云ふ年代でありましたか。

 うゝむ、だと致しますと、元からの高欄の意匠が氣に成るのでありますが、多分に混凝土管を二本使用した姿だつたのでは無いでせうか。
 きようわばし。

 良いでありますね、小文字は遣はず、「し」の字體も素敵であります。

 と、さう云へば、此方全體に親柱の状態が良いでありますね。

 其依りも、隨分と土盛されてゐる樣でありますが、耐荷重とか大丈夫、なのでせうね。
 横から見ますと、矢張拙の大好きな混凝土T字桁橋でありました。

 うゝむ、之で高欄も竣功當時の儘でありましたら素敵だつたのでありますが、まあ其は必然的に改修され度のでありますから仕方が無いでありますね。

 寧ろ此儘、分る人にだけは分る状態で末永く供用されてゐると良いなと思へる物件でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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