2672年 11月 5日 御負ケ

 舊玉生村の道路元標と道標。

 元標は建立年不明でありました。

 道標は

  右 鳥羽新田高原
  左 熊ノ草東古屋
  南下 寺島東房玉生
  (上數文字判讀困難)記念 玉生村(以下判讀困難)

でありました。
 嘗ての栃木縣道六三號線は落合橋、東荒川橋と二つの橋で荒川、東荒川を越えてゐました。
今でも乘合バスの路線表記は其儘の樣であります。

 して、此方が嘗ての落合橋に向ふ舊道跡でありまして、此處から對岸に見える電柱の邊りに向つてゐました。
 舊道の樣子が分る部分であります。
歩道が現在の線形とは逆に曲つてゐるのが一寸寂しいであります。

 此處から現道の看板の邊りに向つてゐたのでありますが、舊落合橋、東荒川橋の遺稿は河川改修もされましたので、見る限り殘つてゐませんでした。
 其落合橋の近くの公園的な所に渡涉路が在りました。
徒歩で如何かなと思ひ近附いて見ました。

 因に車兩進入禁止であります。
 深さ自體は踝程度なのでありますが、と云ふか踝位有りますと、結構足は流れに取られる感覺であります。
流石に上流に近い爲か、流れは急でありました。

 して、普通の靴底の長靴では滑る心配が一寸有つて、渡河には不向きかと思ひましたので、之以上進ま無い方が無難と思ひ、引き返しました。

 無理は禁物でありますからね。

 以上、御附合ひ有難う御坐いました

戻る