2681年 5月 17日 探訪
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此方は
【壬生町下稻葉-都賀町家中 雷電橋】
依り思川を二キロ半程上つた邊の右岸側、西方グラウンドの入口に當る所の桑原用水に架る橋であります。 ぱつと見、若かすると結構古い、實は戰前物件かなと云ふ感じでありますが、其實如何でせうか。 と云ふ事で、此方右岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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【鹽谷町大久保 浮船橋】 の樣な印象の親柱であり、何か彫られてゐる樣で何も彫られて居りませんでした。 |
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下流側も同樣であります。 |
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高欄、元々は鐵管を一本使用しました意匠だつた處に、後年に成り鐵柵適な物を追加した樣であります。 では左岸側へ移動致します。 |
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下流側は自動車が曲易い樣親柱は撤去されて居ります。 |
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此方にも何の表記も御坐いませんでした。 |
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して、横から見た其姿に手荒く驚きました。 今迄見た事の無い姿をして居りまして、混凝土方杖橋とでも云へば良いのでせうか、不取敢ネツトで"方杖橋"と檢索しても同樣の姿の畫像は見られませんでした。 だつたらと友人の元架橋技師の方に畫像を見せ度のでありますが、矢張今迄に見た事も無い形式だとの事でありまして、多分混凝土方杖橋で良いのでは無いかと云ふ事でありました。 |
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因に、栃木市の認定路線網圖や橋梁點檢結果を驅使して調べまして、橋名が"桑原湧泉橋"と云ふ事に辿着き、竣功年が昭和十六年だと分りました。 何か凄く無いですか、大東亞戰爭開戰の年に斯う云ふ橋を架橋するとは。 未だ物資供出に成る迄には時間的餘裕は有つたのでせうが、社會基盤整備に豫算も資源も時間も費せたと云ふ事が單純に凄いと思ひました。 |
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而も上流側中央の橋脚は尖頭型に成つて居りますし。 して、此方が架橋された目的は不明なのでありますが、昭和廿二年の航空冩眞では左岸側に住宅が建つて居りまして、古地圖では此方の用水も橋も確認出來ませんでしたので、 架橋と共に住宅地の整備が始つたのかと思ひますと、進行住宅街としても可也の歴史が有る處なのだなと思つた次第であります。 併し此方、手荒く珍しいので縣、とは云ひませんが、地域の土木遺産的な扱ひにした方が良いのでは無いかと思ひました。 是だけの物、滅多に見られる物では無いでせうから、今囘出會へた事に手荒く滿足致しました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |