鹽谷町大久保 浮船橋

2673年 6月 4日 探訪

 長閑と云ふか人の氣配を感じ無いと云ふか、本當に此處は利用されてゐるのだらうかと云ふ市ノ堀用水(松川)添ひの畔道をとぼとぼと進んでゐました處、 如何見ても古い橋が現れました。

 此は戰前物件の香りが致しますね。
 近附て見ますと、何と無くでありますが高根澤の 【高根澤町花岡 太田堀橋(舊)】 の雰圍氣に近い物を感じます。
多分にT字桁と云ふ形式であらう桁の厚味もしつかりしてゐますしね。

 特に、名稱を掘つてゐる部分の形状からして、昭和十年頃以前の感じかと思はれます。

 其と、橋臺と親柱の作り方、丁寧且つ手間も掛つてゐる樣な感じであります。
 幅員からして、單成る農用道橋とは違ふと思ひまして、歸宅後に古い地圖を見ました處、昔からの道筋に架つてゐる橋でありました。
道理で結構な幅員が有る筈でありますよ。

 併し幸ひな事に親柱、色々と文字が彫つて有るのが普通に路盤依り上のなので安心致しました。

 と云ふ事で、此方左岸側から見て行きます。
 此寫眞では見辛いでありますが、昭和八年五月竣功であります。

 成程、矢張昭和一桁物件でありましたか。
道理で親柱の上部の飾りや名稱の部分等、凝つた意匠をしてゐる譯でありますよ。
 浮船橋。

 最初二文字目が微妙に判讀不能でありましたので、丁度外で作業をされてゐた御近所の方に御話を伺つたのでありますが、 如何やら嘗て、未だ市ノ堀では無く松川だつた時代に、此處から直ぐ上流の右岸に浮船神社と云ふ神社が在つたので、其處から命名されたのだと云ふ事であります。
 丸で大小の麥酒瓶を竝べた樣な感じで、中々にハイカラな意匠の高欄だと思ひます。

 此頃は未だ橋が地域の寶物だつたので命名し度り意匠に特色を持たせたのでせうが、次第に橋と云ふ物の存在が當り前に成つて仕舞ひ、 どんどん素氣無い物に成つて仕舞つたのは殘念であります。

 では右岸側へ移動致します。
 松川。

 周りは皆木橋からH鋼の規格橋に掛替られましたが、此處は混凝土橋だつたからか鬼怒川中部用水路に改修し直されても其儘殘され、現在に至るのださうであります。
 復もや判讀し辛い寫眞でありますが「うきふなはし」と表記されて居ります。

 但し「き」が現代の「き」とは違ふ、「起」の變體假名、だと思ふのでありますが、其が用られて居ります。

 其と、多分不濁に「はし」だと思ふのでありすが、其邊の讀は夫々だと思ひますので、別段細に取上無く共構ひませんかね。

 餘談でありますが、市ノ堀用水、松川共鬼怒川中部用水路共も云はれる此方が改修される折、元々は此處を不通直線的にする豫定だつたさうでありますが、 色々と色々とで此處を流す樣に成つたさうであります。

 其御蔭で、斯樣な歴史的物件に成る物が殘されたと云ふのは、手荒く素晴らしい事だなと思ひました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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