高根澤町花岡 太田堀橋(舊)

2673年 5月 14日 探訪

 高根澤町花岡地内の太田堀(大沼川)を栃木縣道十號線舊々道が渡河する地點に架る、とても可愛らしい古風な橋であります。

 ぱつと見と道路の歴史から鑑て、結構な年代物だと思ふのでありますが、若しさうでありましたら斜めに架橋されてゐる邊り等、 結構に手間も費用も掛つた物件なのでは無いかなと思ふのでありますが、唯、何かが根本的に間違つてゐると云ふか、 本當に其で間違ひ無かつたのかなと思へる部分が無にしも非ず、なのであります。

 では、此方右岸側から見て行き度いと思ひます。
 親柱には銘板も直接文字を彫られてゐる事も有りませんでした。
意匠的にも別段、普通に四角い柱でありますね。

 と云ひますか、もつと下、何故埋つて仕舞ひさうな所に直に何か彫つて有るのでありますが。

 因に、斯う云ふ具合に下の方に書かれてゐる何てネツト上でも見た事が無く、初めてなのでありますが。
 辛うじて昭和六年迄は讀めますが、其以下は無理であります。

 と云ひますか、作つてゐて誰も此場所に違和感を感じ無かつたのでせうか。
 此方にも何か在る、とは思つたのでありますが、手前の草を掻分ても良く分りませんでした。
 高欄は昭和六年當時としましては、結構ハイカラな方だつたのでは無いでせうか。
飽きの來無い意匠と云ひますか、廿一世紀の今見ても拙的には古臭さを感じさせ無いであります。

 え、昭和廿年八月十五日で時間が止つてゐるからだとかは云は無い約束であります。

 正確には昭和十九年十一月以下省略。

 其は措いとゐて、袂に何か在りますね。
 何だらうと思ひましたら、佛樣でありました。
而も大正三年の物であります。

 若しかしますと川の事故か何か在つたのでせうか。

 まあ實際、今囘も1/500でシヤツタアが切れてゐるにも關はらず、手振れ共ピンボケでも無い冩眞が撮れましたのでアレなのでありますが、 何方かと云ひますと暖かく優しさに包まれる樣な感じでありましたので、此橋共々、ずつと此の儘殘つてゐて欲しいなあと感じる、とても愛おしい佛樣であります。

 では、左岸側へ移ります。
 嗚呼、當然此方も斯うでありますよね。

 ふと思つたのでありますが、此橋も親柱つて全て補修されてゐると云ふか、後年に成つて新に建てられてゐるのでせうか。

 と云ひますか、日差の關係で之は一寸見辛いかも知れません。
 嗚呼、多分漢字で「太田」と迄は書かれてゐるだらうと、何と無く讀めるのでありますが、正直、之は嚴しいであります。

 多分河川銘で「太田堀」だらうとは思ふのでありますがね。
 分つてはゐるけれど、もう何と云ふか、實際。
 OTZ

 ええと、何と無く「おほたぼり」と迄は讀めるのでありますが、其依りも下に未だ餘白が在る事から、「おほたぼりばし」だらうと思ふのであります。
でありますので題名も一應「太田堀橋」としたのでありますが、確證が持て無いと云ふのが實際の處であります。
 此年代で之だけの川幅を一徑間つて凄いなと思ひました。

 形式的にはT字桁と云ふのでありますかね。
橋臺附近が斜めに成つてゐるのも戰前物件に多く見られる特徴の樣な氣が致します。
 ふと、何だらうと橋の袂の石碑を見ました處、何と二百三高地で戰死された方の墓碑でありました。

 正直、讀んでゐると辛いのでアレでありますが、明治卅七年沒で、明治四十一年に建立された石碑の樣であります。
 奇しくも明治大正昭和と元號の揃つた物件でありましたが、今でも其が當り前に此處に在ると云ふのが素晴しいなと思ひました。

 丁度農作業を遣られてゐた地元の方に御話を伺つた處、當然の樣に昔から在るので然程氣に掛ける事は無かつたとの事でありましたが、年代を知つた處、逆に大いに感心して呉れて居りました。

 形さへ留てゐれば、斯うして後世に引繼れて行くのでありますね。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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