2681年 9月 6日 探訪
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此方は
【日光市宮小來川 小澤橋】
依り六百米弱程東黒川を上つた所に架る、栃木縣道十四號線舊道の橋であります。 一見して手荒く古い、先づ間違無く戰前橋と思はれますが、其實如何でせうか。 と云ふ事で、此方左岸側から見て行き度いと思ひます。 と云ひますか、黒川も青看が良い味出して居りますね。 |
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黒川。 洗出仕上の頑丈さうな親柱であります。 何處と無く 【藤原町藤原 名稱不明橋】 に近い物を感じさせて呉れます。 其依りも銘板が手荒く見辛いでありますね。 |
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もう之を"黒川"と讀むには可也痛んで居りますので、現物を見る事を御奬め致します。 さうさう、銘板内側の模樣もでありますが、銘板自體 【高根澤町上高根澤 古川橋】 と酷似した意匠であります。 多分同世代と云ふ事でせうか。 |
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殘念乍上流側の親柱には銘板は御坐いませんでした。 多分此方側に橋名表記の銘板が附てゐたと思はれますが、"ノ"だつたのか"の"なのか、將又"乃"だつたのかは謎であります。 まあ、年代的に云へば"ノ"だつたでせうから"鹽ノ原橋"と表記し度のでありますがね。 と云ひますか、之は新造されて居りますね。 |
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良く見たら高欄も親柱側の一箇所が作直されて居りました。 |
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高欄の意匠は如何にも戰前らしい物でありまして、 【藤原町藤原 名稱不明橋】 と共通して居ります。 |
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排水桝。 では右岸側へ移動致します。 |
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此方の親柱は健在でありますが、一寸銘板が見辛いでありますね。 |
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しおのはらはし。 何と口語表記でありました。 と云つても銘板は當時物の樣でありますから、一寸珍しいと云ひますか何と云ひますか。 良く見れば、もつと大きい銘板が附てゐた樣な感じが無くも無いでありますから、一寸した經緯が在るのかも知れません。 まさか原敬の大阪毎日新聞の影響では無いと思ひますが。呵呵 |
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惡線形なので仕方無いでありますが、此方もガアドレイルで見辛く成つて居ります。 |
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昭和七年七月架設。 嗚呼、昭和一桁物件、良いでありますね。 |
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横から見ました處、二徑間のRCT橋でありました。 【藤原町藤原 名稱不明橋】 同樣、戰前橋らしい美しさであります。 |
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橋脚、基礎部分は後年に成り補強されてゐる樣でありますが、元からの部分は尖頭型に成つてゐるのが素晴しいであります。 縣道の舊道部分でありますので、若かすると戰前橋なのでは無いかと思ひ來ました處、見事に戰前物でありました。 而も可也原型を保つてゐる樣でありますので、斯うして見る事が出來まして手荒く滿足でありました。 唯、元の橋名の漢字表記が見られ無かつたのは些か殘念でありましたが、まあ其は仕方無いでありますね。 以上、御附合有難う御坐いました。 |