2681年 4月 5日 探訪
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此方は栃木縣道六八號線と三四四號線が交はる大澤交差點から三四四號線を南下する事約一キロ半、若くは
【那須町寺子乙 中餘笹橋】
依り餘笹川を八キロ程上つた苦戸川との合流地點の直傍、苦戸川に架る栃木縣道三四四號線の舊線形部分の橋であります。 斯うして現在の苦戸川橋から見えるのでありますが、まあ橋はしつかりしてゐさうでありますし、案外簡單に辿着けさうだと思つたのであります。 して、橋自體は如何見てもRCT桁の如何にも昭和卅年代物件の樣であります。 |
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右岸側は親柱も何とか見えますしね。 |
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左岸側は一寸手強さうであります。 手前、何か橋臺跡の樣な物が見えますが、何でせう。 不取敢右岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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と思つたら此な状態であります。 之でも一應兩親柱も入る樣に撮つたのでありますが、ほゞ分りませんね。 |
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苦土川。 現在の表記では"苦戸川"と成つて居りますが、此方が架橋された時は"苦土川"表記だつたのでせうね。 因に、古地圖では元から"苦戸川"だつた樣であります。 と云ふか違ふ河川が苦戸川と表記されてゐたのでありますが、まあ、アレなのでせう。 因に、親柱近邊は結構土砂が流出して居ります。 |
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下流側はもつと酷い状態でありまして、危險度は 【藤原町藤原 名稱不明廢橋】 の比では御坐いません。 |
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苦土橋。 ズウムにしてやつと撮つて居りますが、何か、左右で親柱の形状が違ふ樣な氣がし無いでも無いであります。 |
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高欄は混凝土管を二本使用しました意匠であります。 |
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橋上なら少しは樂かと思ひまし度が、進むのは結構困難でありました。 して、昭和四四、五年頃架橋されたであらう現橋を見てみましたが、普通の鈑橋でありますのでまあ、良いでせう。 して、其手前、確實に橋臺が御坐いますね。 では左岸側へ移動致します。 |
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左岸側へ遣つて來ましたが、此方も手荒く大變でありました。 最初は道形に進んでゐたと思つてゐたのでありますが、氣附と現橋との中間、さう、謎の橋臺の邊に出て仕舞遣直しでありました。 して、何とか進んだものゝ何故橋に辿附無いのかと思ひ良く觀察しました處、斯樣に橋臺手前はすつかり土砂、路牀とか路體等と云ふのでありますかね、 が流出して居りまして、とても橋には乘れ無い状態でありました。 因に右に見えてゐるのが上流側の親柱でありまして、下流側は藪で確認出來ませんでした。 |
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銘板が附てゐるのは分るのでありますが、何と表記されてゐるかは分りませんでした。 |
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すつかり汗を掻乍戻つて來て左岸側を眺めました。 扠、氣に成りますのは竣功年でありますが、現在の苦戸川橋は昭和四四年以降四六年迄の竣功。 さうして此方、舊橋は昭和卅八年以降四十年迄の竣功であります。 さう、長く共八年程度、實際には多分五、六年程度しか供用されてゐ無いのだと思ふのでありますが、何故さう成つたのでせうか。 昭和五十年の航空冩眞では何の不具合も無い樣に見受られますが、觀光開發の爲の道路擴幅とか、觸てはいけないアレな大人の事情等が有つたのでありますかね。 まあ何か短命だつたのが手荒く勿體無いなと思へる物件でありました。 と云ひますか、此方個人的には手荒く危險と感じましたので、近附無い方が無難であります。 因に、其先代橋でありますが、昭和廿二年の航空冩眞で確認出來ますし、混凝土造の橋臺等から判斷致しまして、多分大正末頃から昭和初期の戰前物件かと推察致します。 以上、御附合有難う御坐いました。 |