那須町寺子乙 中余笹橋

2679年 5月 14日 探訪

 此方は國鐵は東北本線の黒田原驛から南下する事約一キロ程の處、餘笹川に架る栃木縣道二一一號線の橋であります。

 栃木縣道二一一號線は、基本的に日本鐵道時代の路線跡を利用した路線でありますが、此方は後年に成つてから架橋された物件であります。

 まあ冩眞を見れば一目瞭然なのでありますが、其鐵道の舊線跡の位置には現在、東北本線の上線が通つて居ります。
其も良く見ますと結構アレな事に成つて居りますのでアレでありますが、まあ何れ其は書かうかと思つて居ります。

 扨、と云ふ事で、平成十年の餘笹川の水害でも多分唯一無事だつたと思はれる此方は如何成つてゐるのか、不取敢此方右岸側から見て行き度いと思ひます。
 余笹川。

 中々に凝つた意匠の親柱であります。
高欄から少し離れて居り、其隙間を埋る意匠も中々であります。

 併し、水害で一躍有名に成つて仕舞つた河川名には、何と無く畏怖の念を抱いて仕舞ます。

 一寸空氣がアレな感じがし無いでも無い共云ひますが。
 中余笹橋。

 如何でせう、此凝つた意匠。
手荒くモダアンな感じでありますよね。
 高欄は混凝土管を一本使用しました意匠であります。

 此斜具合が如何にも昭和四十念前後と云ふ感じであります。
 横から見ました處、七徑間の混凝土T字桁でありました。

 唯、此主桁の感じ、今迄見た事の有るRCやPC桁共又違ふのでありますが、一體如何云つた工法なのでせうか。

 其は橋脚にも云へるのでありますが、尖頭型で逆傾斜と云ふのも初て見ました。
 一見RCなのでありますが、如何なのでせう。

 て、意外と痛んで居りますかね。
尤も、彼の水害を經驗してゐるのでありますから致し方無しでせうが。

 橋脚の支承が載る部分は補強されて居りますね。

 其では左岸側へ移動致します。
 此橋脚の特異な形、素敵であります。
 斯う云ふ具合に鐵道橋と橋脚の位置が一緒だつた御蔭で、此方は無事だつたのかも知れません。

 さう考へますと、恐るべき堅牢さでありますね、鐵道橋梁。
 排水桝は地覆側にも廻る方式であります。
 橋臺から可也外側に出る親柱でありますが、此が如何にもな年代的特徴であります。
 余笹川。

 左右兩岸で對稱の銘板でありますね、之は。

 橋歴板が親柱内側に附て居りました、矢張さう云ふ年代の樣であります。
 昭和四二年三月完成でありました。

 でも、うゝむ殘念、工法が書かれて居りません。
 中余笹橋。

 多分、中流域から下は全ての橋が新に架替られてゐるでせうから、此方が水害以前の姿を唯一殘す處だと思ひます。
さう云ふ點では、其以前の姿が分るので手荒く有難い橋でありますが、其も之も好條件が重なつたからだと思ひます。
事實、冩眞でも見える直上の町道の橋は流出してゐる譯でありますし。
て、さう考へましたら、良くまあ此方は本當に無事でありましたよね。

 或る意味災害遺構、と云つてはアレでせうが、此儘殘つてゐて欲しい物件かなと思ひました。

 因に、此所には戰後初の物件でありますから、「餘」と云ふ正字體は使用致しませんでした。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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