眞岡市鶴田-西井田 谷中橋

2674年 5月 19日 探訪

 【眞岡市八條-鶴田 みさお橋】 から國道二九四號を走る事一キロ強、後一キロ程で益子町との境と云ふ位置に在る橋であります。

 まあ、其意匠から間違ひ無く昭和卅年代から四十年代前半迄の橋であると推察されるのでありますが、みさお橋同樣二九四號の擴幅で作られた橋だと推察致します。

 當然の如く、歩道部分は後年に成つてからの物でありますね。

 因に中央線から左が鶴田、右が西井田であります。

 では此方、右岸側から見て行きませう。
 谷中橋。

 と云ひますか、柵が銘板を粗方匿してゐる樣な状況であります。

 して、歩道橋がぴたりと附て増設されるのでは無く、斯樣に若干離されて作られたのは何の爲なのでせうか。

 轉落防止柵とか作る分、何かと大變なのでは無いかと素人考へして仕舞のでありますが。
 不取敢銘板を大きく寫して見ました。

 嗚呼、文字以外の部分の模樣、正に昭和卅年代以降と云ふ意匠であります。
 右岸下流側の親柱は消失して居ります。
其と、高欄の柱も著く缺損したのを補修されてゐる樣子であります。

 但し其でも縁石の基底部が破壞されてゐるつて、一體何が打當ると斯う成るのでせうか。
 高欄の意匠は西暦1960年代の定番でありますね。

 もう面倒なのでリンク貼りませんが、宇都宮市の物件や茂木町の大藤橋等と相通じる意匠であります。

 元の牀版や排水桝の部分、すつかり舖裝が乘つて分ら無く成つてゐるのが少々殘念でありました。

 と云ひますか、排水桝自體は元から無かつたのでせうか。
態々埋る物でも無いと思ひますし。
 横から見た桁の形から判斷致しますと、此方昭和四十年代的な桁橋だと思ひます。

 まあ嚴密に年代ではつきり別れてゐる譯では無いでせうから、大方昭和卅年代後半以降と云ふ事でせうから、大凡の竣功年度はみさお橋同樣と云ふ處でせうか。

 と云ひますか、何か水量が手荒く多い樣な氣が致しますが、田植ゑが終つた頃の時期だからでせうか。

 では、左岸側へ移動致します。
 谷中橋。

 多分でありますが、兩岸で對稱の銘版なのだらうと推察致します。
其が斯う云ふ年代の特徴でせうから。

 嗚呼、と云ふ事は、消失した親柱の内側に工事銘版が附てゐた可能性も否定出來無いでありますね、

 ううん、手荒く殘念であります。
 用水。

 と、讀めませんね。

 此方も下流側と同樣、親柱に減込で附られた縁石が如何にもと云ふ感じで素敵であります。
 近接撮影致しました。

 ふゝ、用水と律儀に銘版に記す邊、 【宇都宮市峰一-平松町 榎本橋】 に通じる趣きが有つて好きであります。

 扨、竣功年でありますが、平成廿六年の栃木縣橋梁點檢結果を見ました處、昭和四二年と云ふ事が分りました。

 多分でありますが、消失した親柱の内側に其を示す銘板が附てゐた可能性が無きにしも非ずだつたのでは無いでせうか。
其が一寸殘念な結果でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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