茂木町入郷 鹽澤橋

2675年 5月 12日 探訪

 【茂木町牧野-小深 木須川ノ洞門】 からは約二キロ程木須川添ひを上つて來ました。
同じく木須川に架る橋であります。

 併し何と云ふのでせう、此佇ひ。
何か凛としてゐる雰圍氣を感じます。

 此見た目の桁や橋脚から、ほぼ戰前で確定だらうと踏んで居ります。
 して、現在は橋の先、左岸側右手に新橋が架つて居りますので、此方は舊道、舊橋に成ります。

 唯、何故に撤去され無かつたのかなと思ひ邊を見囘しました處、水量觀測施設の樣な物が在りましたので、其通用路と云ふ事で殘つてゐるのでは無いかなと推察致します。

 併しまあ、全體に立派な意匠が施された橋でありますね。

 不取敢此方、右岸側から見て行きます。
 木須川。

 手荒く凝つた親柱の意匠に銘板は大理石でありますかね、其處に綺麗な文字が彫られて居りまして、手荒く見事だなと云ふ印象であります。
 うゝむ、困つた事に此方の銘板は一文字目が缺て居り、且つ光の加減とガアドレイルが邪魔で、二文字目もほぼ判讀不能状態でありました。

 斯う云ふ時、幾らガアドレイルが古初代とは云へ、邪魔な物は邪魔だと云ふのが正直な處であります。
 と云ふ事で、近附て冩して見ました。

 一文字目と二文字目の頭の゛部分迄が缺損してゐるのでありますが、多分、後述致しますが、鹽澤橋と彫つて有つたのは間違ひ無い樣であります。
 併し何共凝つた意匠の高欄であります。
之は間違ひ無く手荒く手間暇掛つてゐる事でせう。

二徑間で高欄も桁毎に分割されてゐるのでありますが、さう感じさせ無い樣な造りに感心させられます。

 まあ、戰前物件なのは確實だらうと云ふ感じであります。
 して、驚きましたのは、丸で一體型の樣な高欄に最初は見えたのでありますが、良く見ますと、繼目から左右對稱に成る樣に成つてゐた事であります。

 此拘り樣、手荒く素晴しいであります。

 では左岸側へ移動致します。
 昭和十一年六月竣功。

 ほら、矢張良い年代の物件でありましたよ。

 と云ひますか、まさか斯う云ふ山間部で戰前物件に出會へるとは思ひませんでしたので、嬉しく成つて仕舞何時も以上にゆつくりと色々眺て居りました。
 しほざわはし。

 はい、と云ふ譯で矢張鹽澤橋であります。

 因に此方に書かれてゐる「し」でありますが、「志」の變體文字と云ふか之が正式と云ひますか、昭和十二年の廣辭林では此方と同樣に書かれて居ります。

 唯、「はし」と云ふ具合に「し」と表記致しますから、語尾に來る場合は「し」であり、其が戰後の字音假名に成つてから全て「し」に成つたのでせうか、多分。
因に、正確な事情を調べる氣はほぼ無いであります。

 だつて、實は如何でも構は無いと云ふ感じでありますもの。
如何せ廢れてから幾年月と云ふ感じでありますものね。
 何か今囘許は有難がつて何度も往復して居りました。

 之が昭和十一年の牀版であります。
 桁的には二徑間のT字桁混凝土橋でありますね。

 此角度が附た主桁が、如何にも戰前混凝土橋と云ふ感じで素敵であります。

 又、角張つた橋脚も其時代性を示して居りまして美しいであります。
 さうして、此護岸から迫出した橋臺も時代をかんじさせて呉れる處であります。

 否併し、親柱の意匠、素晴らしいでありますね。
 さうしても一つ特徴的でありますのは、橋脚の上流側だけ尖頭型に成つてゐたのでありました。

 おや、橋臺の具合が此方、 【茂木町小井戸 名稱不明橋 【一】】 と似て居りますね。

 と云ふ事は、彼方も矢張さう云ふ年代の物件確定と云ふ事でありますかね。

 併しまさか斯う云ふ山間に戰前物件が殘つてゐたとは露も思ひませんでしたので、實に得した氣分で冩眞を撮る事が出來ました。
是非共ずつと此儘殘つてゐて欲しい物であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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