南那須町下川井 名稱不明橋二本 【一】

2675年 3月 17日 探訪

 【南那須町熊田 中井上橋】 依り一キロ三百米程上つて來ました。

 さう致しましたら、中々に可憐な三徑間の混凝土桁橋が架つて居りまして、如何にも年代物と云ふ感じでありましたので、是復じつくりと觀察する事に致しました。

 では此方、右岸側から見て行きます。
 農用道橋、と云ふ依りは町道の橋と云つた處でせうか。

 併し今迄に見掛た事の無い型の高欄であります。
強いて言へば、大谷の 【大杉橋】や駒生の 【鎧川橋】 に近いと云ふ感じでせうか。

 橋臺部分から路盤迄の鐡板はノンオリヂナルかと思ひます。
其と、當然でありますが、高欄の一部が結構其也の形に補修されて居ります。
 排水桝は斯う云ふ具合であります。

 簡素に穴が開いてゐる程度、でありますね。
 併し此高欄で、まあ、其でも無い依りは十分に増でせうがね。

 後述致しますが、之でも十分に遣つた時代だつたと思ひます。
 橋脚は混凝土柱を三本使用した型であります。
所謂パイル形式と云ふのでせうか。

 桁は戰後米國から導入されたと云はれる、鐡桁に似た方式の混凝土桁でありますね。
此御蔭で一徑間の距離を伸ばす事が出來たと云ふ事であります。
良惡は別と致しまして。
 先程の橋から五百米程上つて來ました處、同樣の橋が架つて居りました。

 此方は高欄が附足されて居りますが、地元の方に訊きました處、小學生の通學路と事で、安全對策で町に附て貰つたとの事でありました。

 此方には橋臺と桁の間に鐡板が附て居らず、オリヂナル度は高いと思はれます。

 して、此方も右岸側から見て行きます。
 此方も同樣にパイル形式の橋脚を持つ三徑間の混凝土桁橋であります。

 完全に同一の形態でありますから、竣功年も同時かと思はれます。
 排水桝も一緒でありますしね。
 して、如何せでありますから下部構造も見てみようと思ひ、一寸下に潛つて見ました。

 ええと、橋臺と桁、一體構造の樣にも見受けられますが、之は後年に成つてからの補修か何かでさう云ふ具合に見えるだけでせうか。

 其と橋臺、横に斜に成つてゐる部分が有るのでありますが、之つて桁のずれ防止の爲なのでせうか。

 支承、如何なのでありますかね。
 I型と云ふのでありますかね、其構造と橋脚の柱部分が丁度重る樣に成つてゐるのでありますね。

 まあ、應力を考へれば當然でせうけれども。

 併し基本、T字桁の發展形なのだらうと思ふのでありますが、此主桁と牀版の感じ、昭和卅年代の物件に通じる機能美を感じます。
 因に、地元の方に訊きました處、此等の橋の竣功年は昭和廿七年との事でありました。
其時に圃場整備と河川改修が行はれ、架橋されたとの事であります。

 さう云ふ點で、此等の橋、戰後物件としましては、可也早期の物なのでは無いでせうか。
其と、其年代を聞いた上で高欄の意匠を考へました處、上記の二橋、特に鎧川橋の竣功年代を思ひ出しまして、成程と納得した次第であります。

 併し、斯うして橋臺との接合部分を寫眞で見ました處、現地では暗くて見え無かつた桁へ書かれた文字に初めて氣附まして、 一體何處の會社の栃木工場だつたのか、も一度見に行か無いといけないなと云ふ氣に成りました。
 と云ふ事で後日確認に行きました冩眞が此方なのでありますが、"前田製管株式会社 栃木工場"と書かれて居りました。

 六十年以上前の文字が消えずに未だ讀めると云ふ事に感動致しました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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