上河内村宮山田 御宮橋 【西鬼怒川橋梁群 其四】

2673年 6月 4日 7月 1日 探訪

 扨、御次は御覽の樣に、先の小室變電所の直ぐ傍に在る此方、御宮橋であります。

 此方、古くからの街道筋の樣でありまして、右岸側へ渡りますと羽黒北街道と成つて居ります。
又、現在の栃木縣道六三號線バイパスの元と成つた道筋に架る橋でもありまして、 現在の位置とは違ひ、當初の計畫では縣道六三號線バイパスも此邊で渡河する豫定だつた樣であります。

 併し、橋依りも導水管の方が目立つて仕舞ひ、何方が如何なのか解り辛い寫眞でありますね。

 因に、七徑間の混凝土桁橋の樣でありますね。

 では左岸側から見て行きます。
 おや、七噸の重量制限が掛けられてゐます。

 元々二等橋なのかも知れませんが、其以外にも老朽化等の原因が有るのだと思はれますが、如何なのでせう。

 其共、元々七噸なのかな。
まあ良いや。

 して、古ガアドレイルと、一見して樣子がアレな親柱が目に入りますが、其以上に導水管橋の此構造が凄いであります。
 左岸側正面から見ますと、まあ至つて普通と云ひますか、如何にも昭和卅年代物件と云ふ感じの橋であります。
でも流石街道筋の橋、小型車や普通車同士でありましたら一應擦違ひは可能な幅員であります。

 唯、此の微妙な弧が橋と云ふ感じで好きなのでありますが、道全體の勾配から致しますと如何なのでせう。
今では惡線形と云はれさうな氣がし無いでも無いであります。

 因に導水管橋でありますが、昭和五十年代前半頃に作られた物の樣であります。
 御宮橋。

 何か明らかに補修、と云ふか作り直されてゐる感じでありますが、其でも銘板が附られてゐる邊、大切にされてゐる橋なのでありますかね。

 唯まあ、見た目も少し全體の統一感と云ひますか、まあ、ええ、ねえ。
 西鬼怒川。

 ええと何でせう、此取つて附た樣な一體に成つた親柱は。
折曲つた儘補修されてゐる欄干も大概が氣が致しますが、色々と無茶な作りと云ふか補修のし方がまあ、味はいと成つて居りますね。

 御蔭で親柱の姿が其々に違ふと云ふのもアレでありますが、如何して斯う云ふ事に成つてゐるのかが不思議であります。

 併しまあ、新しいであらう銘板は綺麗なのでありますが、個人的趣味で云ひますと、早く緑青吹いて呉れた方が"らしい"感じで好きであります。
 發電所の排水口からの調整池も兼てゐるのでせうか、此處等邊の西鬼怒川が一番廣い處の樣な氣が致します。

 併し高欄と其柱、表面に鐵筋が見えてゐるのでありますが、之つて今では考えへられ無い事、でせうね。

 では右岸側へ移動致します。
 をゝ、此方は親柱も間違ひ無く當時物の樣でありますから、一應此方の正面からも撮つて見ました。

 此方の方が竣功當時の雰圍氣に近いかも知れませんね。
其以外の景色はすつかり違ふのでせうけれど。
 昭和三十七年七月竣功。

 嗚呼、矢張昭和卅年代物件でありましたね。
何の變哲も無い意匠の親柱でありますが、却つて其が昭和卅年代の特徴と成つてゐる樣にも思へます。

 竣功を年度末に合はせてゐる譯でも無いのが又、良いでありますね。
 おみやばし。

 濁つて「ばし」なのでありますね。

 と云ふか、濁りは日本語の立派な傳統だと思ふのでありますが、之も若し改修された時には「おみやはし」とかに直されて仕舞ふのでせうか。

 其と、矢張銘板は斯樣にきちんと埋込れてゐた方が素敵であります。
 斯う云ふ橋脚、所謂パイル形式と云ふのだと思ふのでありまが、昭和卅年代から四十年代の物に多いのでありますが、實は經費削減の爲に導入された物なのださうであります。
實際に架橋に携つてゐた人に聞きましたので間違ひ無いのでありますが、其と同じくして歎かれてゐましたのは、昭和四十年代に成り、 戰爭の後遺症で技術が遲れてゐた日本は、西洋の技術を導入して徑間を長く出來る樣に成りましたが、 實は耐震性では舊來の物でも十分だつたのでは無いかなと思ふと云ふ事であります。

 まあ本當、軒竝みアレぢや無くて大健鬪だつたと思ひます。
此な薄い、多分單純桁とかスラブ形式とか云ふ橋でも何共無かつたのでありますからね。

 以上、御附合有難う御坐いました。


 【西鬼怒川橋梁群 其五】に續く。
 西鬼怒川橋梁群 其三は【此方】であります。

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