2673年 6月 4日 探訪
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東北自動車道の西鬼怒川橋から下る事三百米弱、此方は栃木縣道六三號線の舊道の橋であります。 確か何も氣にせずに通つてゐた時から結構な年代物だつた筈と思つてゐたのでありますが、 久々に見ますと期待通り、昭和四十年代前半、或は西暦1960年代後半を感じさせる姿でありました。 さう、さう云ふ時代、突如として斜めの意匠が流行してゐる樣に思ふのでありますが、 其も多分、依り高速化する交通網の象徴的意匠だつたのでせうか。 不取敢此方、流石に二桁縣道師弟でありますので、中央線が引かれた立派な幅員が御坐います。 では此方、左岸側から見て行きます。 |
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愛宕橋。 京都ぢや無いのに愛宕とは、一體如何云ふ由來なのでせう。 思はず上方落語の愛宕山を思ひ出して仕舞ひましたが。 併し何と云つても此斜め具合が意匠の特徴でありますね。 其と、柱と云ふ依りは横へ廣がる等、何方かと云ふと彫像的意味合を持たせる感じに變化して來たと云へるのでは無いでせうか。 まあ其だけ高度經濟成長期、戰後から色々と餘裕が出て來たと云ふ事なのかも知れません。 え、重巡の愛宕でありますか。 高雄と共に何と云ひますか、ええ。 |
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銘板の下に工事銘板も附て居りました。 此時代の橋は竣功年度の確認等が樂で好きであります。 昭和四二年三月竣功なのでありますね。 併し何と云ひますか、戰後廿年以上經つて居りますのに、嬉しい事に「縣」表記であります。 まあ、何で新字體とか制定したのかアレでありますのでアレでありますが、さうした意味が分りません。 因に、一等橋だつたのでありますね。 |
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西鬼怒川。 羽黒橋とは違ひ、未だ此頃は通行する人に橋名や河川名を示し度いと云ふ意志が感じられます。 併し御宮橋とは五年違ひ程度なのでありますが、此意匠の變化は凄いでありますね。 |
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高欄は桁毎に分割されてゐる型の樣であります。 其と、路盤は混凝土其儘でありますので、當時の面影が感じられます。 元々の中央線は白い點線で、追越可能だつたのでありますかね。 では右岸側へ移動致します。 |
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愛宕橋。 此年代の例に不漏、此方の橋の銘板も左右兩岸で對稱の樣であります。 其所爲か、工事銘板迄もが此方にも附て居りました。 勿論、表記に兩岸での違ひは御坐いませんでした。 |
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西鬼怒川。 さう云へば、四本共に親柱の状態は良好でありますね。 何れも之と云つた缺損も無く、自然に枯て行つた風合の儘であります。 |
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排水桝は斯う云ふ具合でありました。 鑄物の蓋に、斜めに排出する管との組合せの樣であります。 |
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流石に一等橋と成りますと、橋脚もしつかりとした造りに見えて來るので不思議であります。 不取敢、四徑間の混凝土桁橋と云ふ事でありますね。 桁の種類は如何にも判別附難い感じでありますので、何共云へません。 併し現在からしますれば、一寸橋が低いと思へるのでありますが、増水時とか大丈夫なのでせうか。 |
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之は左岸側でありますが、河川紹介の表示が中々に貴重かと思ひ冩しました。 確か上河内の町制施行期間は十數年だつた筈でありますから。 併し當時、何で無理矢理にでも町にしたのでせう。 却つて公文書關連で不便を強いられる事が増える等、其程の利點は無かつた樣に思へるのでありますが。 其共、「村」と云ふ呼稱自體に或る種の何かを感じてゐたのだとすれば、社會全體として何か方向性が間違つてゐるのでは無いかと思つて仕舞ひました。 さう云ふ"何か"を偏重する事、廿一世紀の今ではもう時代遲れに成つた事だなと思ふのでありました。 以上、御附合有難う御坐いました。 【西鬼怒川橋梁群 其七】に續く。 西鬼怒川橋梁群 其五は【此方】であります。 |