河内町中岡本 根古屋橋

2673年 8月 20日 探訪

 此方は岡本北小學校の袂、 【しらこうじ橋】 から一キロ半近く下つた處の九郷半用水と云へば九郷半用水。
且つ、越戸川の最上流部と云ふか内川と云ひますか、正直な處はつきりとした事が良く分ら無いのでありますが、 【平和橋】 から續く流れの部分でありますから、まあ九郷半用水として良いのかな、と云ふ處であります。

 併し正直、餘り期待してゐ無かつた處に現れるぱつと見に古い橋は、手荒く嬉しい處であります。
矢張昔からの集落は侮れません。

 ぱつと見の雰圍氣からして戰前物件、而も昭和一桁だと思ひましたが扨、如何でせう。

 不取敢此方、右岸側から見て行きませう。
 昭和七年四月竣工。

 ふふふ、良いでありますね、昭和一桁。
大凡八十年前の橋が殘つてゐるのでありますものね、而も當り前の存在として。

 まあ昭和九年以前なので銘板が附てゐ無いのは先づ當然としまして、誰かが讀易い樣にと白い塗料で色入れして呉れてゐるのが微笑ましいであります。

 まさか、實は元々は何處の橋も斯う云ふ具合に墨入れして居る筈が、年月の經過と共に忘れられる處、此處はずうつと手入れされてゐる。
と云ふ譯では無いでありますよね。
多分。
 根古屋橋。

 混凝土が少しずつ碎け、石が露に成つてゐるのが流石に年齢を感じさせると云つた具合でせうか。
而も川砂利が不斷に使はれてゐると云ふ邊が良い時代を感じさせて呉れて居ります。

 併し上部の角だけが缺けると云ふ事は、打當つたのは自動車では無いと云ふ風に思はれるのでありますが、如何な物でせう。
 親柱一體に成つた高欄の意匠は半圓を模してゐる樣であります。

 其共、蒲鉾型と云ふべきなのでせうか。

 併し斯う云ふ年代の橋、何處を見ても同じ意匠が無いのでありますから感心致します。

 では左岸側へ移ります。
 昭和七年四月竣工。

 さう、此左岸側の親柱を見て卒倒しさうに成りました。
之をぱつと見で「昭和七年四月竣工」と讀る現代人が何れ程居るのか知り度いであります。

 「和」と「年」の崩し方始め、全ての文字の達筆具合が素晴らしいでありますし、且つ之を彫つた職人さんの技術も手荒く素晴らしいと思ひます。

 して、一寸調べて見たのでありますが、此方が架橋された時は未だ河内町では無く古里村でありまして、村長は平山順一郎と云ふ人物でありました。
此方が村道である場合、此文字を書いたのは工事發注者と云ふか管理者の長である村長でありますから、氏の筆に依る物だと云ふ事でありますね。

 いやあ、素晴しいであります。

 因に、縣の物件だつた場合、當時の知事は豐島長吉と云ふ人物の樣であります。
 ねこやばし。

 勿論橋梁名だつて同樣に立派であります。

 上記の通り「ねこやばし」なのでありますが、「こ」と「や」の變體假名が素敵でありますし、「し」が「へのへのもへじ」の「じ」の樣なのが粹だなあと思ひます。
と云ひますか、昭和卅年代迄の橋で假名表記の銘版が附てゐる場合、斯樣な「し」の書方をしてゐる場合が多々在りますので、さう云ふ流儀と云ふか、作法に成つてゐるのでせうか。

 其と、各地の昭和一桁物件を見てゐて常々思つてゐるのでありますが、當時、 まさか未來の日本人が自分達の讀書してゐる文字を普通には讀無く成つてゐるとは想像だに出來無かつたのでは無いでせうか。呵呵

 だつて、正假名遣ひで文章書いてゐる人間だつて絶滅危惧種でせうから餘計に、でありますよね。
 横から見ますと、混凝土の多分T字桁と云ふ種類だらうと思はれます。

 殘念乍探訪した時期では橋臺を見る事は出來ませんでしたが、之だけ見られれば十分でありますかね。
 此は橋の袂に殘されてゐました、何か標識柱の殘骸と思へる物であります。

 之もきつと、可也の古物件だつたのかも知れません。

 因に、橋名の由來でありますが、元々此處は中岡本の根古屋と云ふ地名だつた樣でありますので、地名由來で命名された樣であります。

 何れに致しましても、當然の樣に此儘の姿で當然の樣に使はれてゐると云ふ事に、歴史的物件云々以上に普遍的な價値が有ると思へる物件でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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