河内町下橋 平和橋

2673年 7月 23日 探訪

  【河内町下橋 栃木縣道一二五號線 通稱白澤街道舊道 【後篇】】を遣つた時、西下橋交叉點に出る爲に左に折た處を逆に右に折て進んだ先に有在るのが此方、平和橋であります。

 此方も昔からの道筋でありますので、若しかしたら"在る"かも知れ無いと思ひ來て見たのでありますが、矢張在りました、と云ふ感じであります。

 では此方、左岸側から見て行きます。
 唯、殘念乍片側が擴幅されて仕舞つて居りますが、路面に描かれてゐる樣に、昭和四十年代後半に此處は三叉路から五叉路に成つた樣でありますので、 交通の圓滑化を圖る爲にも必要な措置だつたのだらうと思はれます。

 因に擴幅されましたのは、航空冩眞から推察致しますに、昭和末期か平成初期の頃だらうと思はれます。

 話は戻つて此方、現在は舖裝が載つて居りますが、往時は混凝土の牀版其儘だつたのでは無いかと推察致します。

 併し右手の古二期型ガアドレイル、親柱の傍に支柱が無いのでありますが、其機能、ちやんと發揮出來るのでせうか。

 因に、此方の元々の道筋は、此方を渡つたら直に右に折れ、道路右手に見える家の裏側を通つてゐた樣であります。
 平和橋。

 最初は無名橋かと思つてゐたのでありますが、しつかりと銘板が附て居りました。

 但し混凝土に彫られてゐるからと云つても、此方の場合別體に成つてゐる處にでありますし、何か字體も手書とは思へません。

 其に親柱の簡素な意匠からしまして、戰前物件とするには早計かと思はれます。
 嗚呼、此高欄の意匠は、多分に昭和廿年代の物では無いでせうか。

 此近場でありますと上河内村の 【板橋】 が、斯う云ふ意匠の高欄を有して居ります。

 とは云へ、板橋は年代不明でありますが。
 擴幅側がまあ、ガアドレイル高欄の所謂鈑橋であります。

 御洒落高欄に成つてゐ無い事から、バブル以前と見て間違ひ無い、と云つた處でせうか。

 では右岸側へ移動致します。
 くごうはん。

 ええと、最初に地區か何かの事なのかと思つたのでありますが、國道四號鬼怒橋の袂に、九郷半用水の改修だつたか開鑿記念碑が在りまして、 是が用水の名前だと知つた譯であります。

 併し此方は手書風な字體でありますが、現代假名遣ひである事から、間違ひ無く戰後物件、矢張昭和廿年代頃の物でほぼ合つてゐると思はれます。
 横から桁を見ますと、混凝土の、之は間違ひ無くT字桁と云ふ形式だと思はれます。

 併し面白いのは、親柱が橋臺側に附てゐるのでは無く、桁の上に車止と一體に成つてゐると云ひますか、 抑々高欄も含て一體構造の樣に成つてゐる點で、若しかしまして規格橋の走りの樣な物なのでせうか、此方。
 ふと氣に成り、桁と橋臺の境を見てみたのでありますが、成程、親柱は桁の上に作られて居りました。

 何と無く、之では親柱としての機能、意味合ひが餘りアレでは無いのかな共思ふのでありますが、さう云ふ試行錯誤に入つた時期の物件と云ふ推察にする事に致します。

 併し、多分に昭和廿年代物件だらうと思ふのでありますが、平和橋と云ふ命名に、"あの日"、大東亞戰爭後の人々の正直な願ひが込られてゐるのだらうと思ひますと、 思はず目頭が熱く成つて仕舞ひました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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