2673年 6月 17日 探訪<
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此方、上河内村内の蘆沼橋から八百米程下つて來た處に架る境橋であります。 何故に境橋なのかなと思ひ、若しかして上河内村蘆沼と河内町下橋(サゲハシ)との境に架橋されてゐるからだらうかと地圖を見ました處、 成程、橋の中央が境に成つて居りまして、上下流側で其々の町村と云ふ譯なのでありますね。 併し此方、水仙橋や其々の蘆沼橋同樣の古風な意匠でありますので同年代かと思ひきや、昭和五十年三月竣功でありました。 別段ガアドレイル高欄でも良かつたのでは無いか共思ふのでありますが、斯う云ふ物と比較して、何方が如何アレなのでせうか。 |
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まあ橋的には規格物の二徑間鈑橋でありますね。 併し此處、利用頻度は推して知るべしと云つた處だらうと感じるのでありますが、と云ふか、西鬼怒川全體に橋の數と云ふか架橋頻度が高い樣な氣が致します。 本當に此處迄必要なのかなとか野暮な事は一切思ひませんけれどね。 正直、幹線道路を通る依り遙に斯う云ふ道の方が拙は好きでありますから。 |
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此方は栃木縣道一二五號線、通稱白澤街道の橋であります。 桁、と云ふか鋼材の厚みからしまして、流石に交通量を見越しての一等橋なのだらうと思ふのでありますが、果して如何なのでせうか。 |
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にしかわ橋。 て、何で橋だけ漢字なのでせう。 因に、漢字表記では西川橋であります。 して、此橋は二代目でありまして、元々は斯う云ふ具合に曲線を描かず眞直の橋でありました。 何故なら、街道的には左手、下小倉方面に向ふ道の方が古くからの道でありまして、氏家町上阿久津方面に向ふ阿久津大橋が昭和四七年に架橋され、 舊來からの奧州街道の交通を擔ふ樣に成つてから、現在の栃木縣道一二五號線側が主流に成つた物でありますから。 併し西鬼怒川に架るのに何故故西川橋なのかは不明であります。 と云つても、昭和卅年代頃迄は西鬼怒川も流れが何本か在つた樣でありますので、其一本が西川と呼ばれてゐたのかも知れませんし、 其名殘りで斯う命名されてゐるのかも知れませんが、飽く迄も拙の推測に過ぎません。 して、此方の舊道、舊橋は別の機會にでも記します。 |
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此は古の名殘り、白看でありますかね。 羅馬字表記無しと云ふのは何時頃の年代の物なのでせうか。 其と此方、不思議でありますのは、二徑間の兩方の桁其々に工事銘板が附てゐるのであります。 右岸側が西暦1978年3月完成と成つて居りまして、何故か左岸側には1977年3月完成と成つてゐるのであります。 別段今迄水害で流出、と云ふ事は無かつた筈でありますが、之は一體如何云ふ事なのでせう。 手荒く謎であります。 考へてゐてもアレでありますので、不取敢次行きませう。 |
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此方は西川橋から一キロ少々下つて來まして、白澤地區内に架る芝川橋であります。 古一期後半のガアドレイルに導かれる樣に進む、白澤街道の舊々道側の傍に架かつて居ります。 勿論、元々から架つてゐた橋では無く、河川改修後新に出來た橋であります。 |
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唯此方、舊々道と云つても本當に直に終つて仕舞ふ距離でありますので、別段取上る程でも無いのでありますがまあ、
幅員も線形もアレだつたので、線形改良に伴ひ斯う云ふ具合に殘されて仕舞つた、と云ふ具合であります。 でありますので、今や芝川橋へ向ふ道路兼、休憩所的な役割のみの場所と化してゐる樣子であります。 |
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今迄の西鬼怒川の橋と違ひ、可也現代的な高欄を有してゐる橋であります。 唯、親柱は立派な高さが有るのでありまが、意匠的には凝つてはゐ無いので、年代的には他の橋と餘り變ら無いのかも知れません。 |
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何と竣功は昭和四八年三月でありました。 でもも考へて見ますと、昭和四七年竣功の阿久津大橋が斯う云ふ高欄でありますので、ガアドレイルから斯う云ふ意匠の物に變化して行く頃のだつたのでせう。 多分。 併しまあ、此方も何故架橋されてゐるのかアレな場所でありまして、利用頻度は餘りアレでは無いのかなと云ふ印象であります。 嗚呼、此方も二徑間の鈑橋でありますね。 以上、御附合有難う御坐いました。 【西鬼怒川橋梁群 其十】に續く。 西鬼怒川橋梁群 其七は【此方】であります。 |