2673年 6月 17日 探訪
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芝川橋から六百米程下つて來ました。 此方線形改良後の奧州街道の橋、其名も西鬼怒川橋であります。 ええと、同名異橋が他にも在るのでありますが、市町村と云ふか管理者が變れば良いのでせうか。 前の芝川橋が二徑間でありましたのに、此方は三徑間と如何にも歴史を感じさせる作りであります。 |
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近附て桁を良く見ますと、三徑間中中央と右岸側の二桁の混凝土の色合が左岸側とは違ひます。 後から混凝土を塗られた樣な跡に感じられますから、多分補修された跡なのだと思ひます。 桁的にはT字桁と云ふ類だらうと思ふのでありますが、PCなのかRCなのかは分りません。 |
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では左岸側正面から見て行きます。 幅員的には中央線が描かれてゐ無くて妥當な程度であります。 其でも此方が現役街道當時の交通量では十分で、然して問題は無かつたのでせうから。 併し何共まあ、隨分と大膽と云ひますか前衞的と云ひますか、何處でも見た事の無い、實に個性的な意匠を纏つた橋でありますよ。 他にも同樣の意匠の橋が在れば、見て見たい處であります。 |
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西鬼怒川橋。 まあ、此反返る樣な意匠では、正面に銘板を取附られ無かつたでせうから、此位置が妥當な處、でありますね。 |
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西鬼怒川。 妥當、と云ふか、當然なのでありますが、益々二つ前の西川橋と云ふ名前が何故なのかが氣に成る處であります。 |
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單純に高欄の構成だけを見ますと、上下二本の混凝土管を使ふ邊、多分に昭和卅年代物件の特徴を備へて居りますので、竣功はさう云ふ時代だらうと推察致します。 併し此柱の存在感が凄過ぎて、桁毎に高欄が分れてゐる、且つ桁の中央部分の柱も其々に立派だと云ふのも見落す處でありました。 では右岸側へ移動致します。 |
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にしきぬがわばし。 此方は濁つて「ばし」なのでありますね。 と云ふ事は、完全に上河内宮山田地區の橋と同一名稱と云ふ事であります。 だと致しますと、東北自動車道の橋も濁つて「ばし」なのでありますかね。 さう成りますと、濁るのと不濁の呼稱の違ひは何處で決めるのでせうか。 日本語のさう云ふ文法つ、若しかして拙が知ら無いだけなのでせうか。 英語等のアルハベツト圈の言語でありましたら、何と無く接頭接尾、男性女性中性名詞等でさうだと云ふのは何と無く分るのでありますが、日本語つて難しいであります。 |
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昭和卅八年三月竣功。 と云ふか、英數字を遣つてゐる此年代の橋つて珍しい樣な氣が致します。 其共、横書だからと云ふ事ででせうか。 嗚呼でも矢張全體的な雰圍氣でさう云ふ年代だとは分ります。 唯、此結構奇拔と云ひますかモダアンな意匠だけを見て仕舞ひますので、年代的特徴が忘れ勝ちに成る處でありました。 |
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右岸側には江戸期の渡河地點の案内が在りますが、同時に、ほぼ舊橋が架けられてゐた場所を示してもゐる樣であります。 嗚呼、舊橋は如何云ふ姿だつたのでせう。 航空冩眞で確認致しますと、多分に戰前物件だつたのでせうから、きつと木橋だつたのでは無いでせうか。 其姿、見て見たかつた物であります。 |
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桁の横、右岸下流側の方には工事銘板が取附られて居りました。 右岸側で管理者側を向てゐると云ふのは御約束通りでありますね。 併し此方見て意外でありましたのは、街道筋なのに二等橋だつたと云ふ事であります。 と云つても、奧州街道自體明治の世に出來た陸羽街道の舊道である譯でありますから、當然と云へば當然なのでせうか。 併し此方が架橋される前の昭和卅六年迄には西川橋が架けられ、昭和四十七年に阿久津大橋が架けられてからは、 鬼怒川を渡河する爲の道程も白澤街道に讓り、或る意味一線を退いた譯でありますが、今やひつそりと餘生を送つてゐる樣な此方、 奧州街道未だ健在也と云ふ感じで、長く愛され續けて欲しいものであります。 以上、御附合有難う御坐いました。 【西鬼怒川橋梁群 其十一】に續く。 西鬼怒川橋梁群 其九は【此方】であります。 |