2673年 10月 29日 探訪
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此方は
【芳賀町上稻毛田-稻毛田 富士山橋、田島橋他大川規格橋群】
の續きで、最後の橋から六五◯米程大川添ひを下つて來ました處、市貝町に入つて最初に架つてゐる橋であります。 多文、之位の川幅に架る橋としましては、比較的一徑間の長い混凝土橋では無いでせうか。 其に、鐡桁の規格橋では無いと云ふのも意外と在りさうで中々御目に掛れ無い樣に感じますので、或る意味貴重な物件かも知れません。 多分、昭和卅年代でありましたら二徑間に成つてゐても不思議では無い距離だと思ふのであります。 さう云ふ點で、若かしますとRCでは無くPCなのかも知れません。 併し、之も技術の賜物何だなあと感心致す次第であります。 と云ふ事、此方左岸側から見て行きます。 |
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正面から見た處であります。 高欄の風合からしまして、多分に西暦1960年代('66とか'67頃)の物件かと思はれて名前を期待したのでありますが、殘念乍銘板は取附られて居りませんでした。 して、少し詳く架橋年度を調べようと思ひ航空冩眞を見ました處、昭和四二年以降四九年迄の間に架橋された物件の樣であります。 まあ、其でも大凡西暦1960年代末期では無いかと推察するのでありますが。 嗚呼、上記の横から見た冩眞でありますが、多分T字桁、では無く單純桁なのでは無いかなと推察するのでありますが、如何でせうか。 |
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さうして此方、
【河内町下橋 平和橋】
と同樣に、橋臺側に親柱が作られてゐるのでは無く、飽迄も高欄の一部と云ふ感じで、牀盤の上に乘せられて居ります。 何でせう、違ふ意味で贅澤な造りの樣な氣がし無いでも無いであります。 因に、欄干は混凝土板を一枚使つた意匠であります。 |
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排水桝の樣子が分り易いのは此方でせうか。 牀盤の方にでは無く、車止の方に穿たれて居りました。 嗚呼さうさう、橋の袂に石積が見られる事から、昭和四五年頃迄に架橋されたと云ふ見立でほぼ、間違ひ無いと思はれます。 |
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河川改修に因り現在の状態に成つたにも関らず、處々は混凝土の護岸では無く自然な感じの儘に成つて居りました。 では、右岸側へ移動致します。 |
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併し綺麗な状態の儘の親柱でありますね。 其だけ、交通量も少いと云ふ事なのでせうが。 派手な反射鏡が附て居りますが、餘り必要性は無い、と云ふ感じでせうか。 |
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と思ひましたら、此方一度は手荒く壞れて仕舞つた樣であります。 成程、之では大きい反射鏡が必要だなと云ふのも納得であります。 併しアレでありますね、補修するのに橋臺側迄混凝土で固めた筈でありますのに、矢張繼目の部分で割てゐると云ふのは、 何れだけ橋に色々な力が掛つてゐるかと云ふ事の正銘かも知れませんね。 まあ、中々に興味深い物件を見る事が出來て面白かつたであります。 以上、御附合有難う御坐いました。 |