2673年 10月 29日 2676年 7月 26日 探訪
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此方は栃木縣道六一號線の舊道側、上稻毛田地區に在る
【芳賀町上稻毛田 西家橋】
依り大川を下る事約六百米の位置に架ります、鹽谷町の市ノ堀用水、舊來の呼稱で云へば松川に架る
【市ノ堀用水(松川)無名橋群 【後篇】】
で御馴染の規格鈑橋であります。 して、當然の樣に名稱不明なのでありますが、まあ其も此手の橋では良く有る事でありますので深くは考へ無い樣に致します。 當然、同時に竣功年度も不明なのでありますが、まあぱつと見た目に古初代ガアドレイルの角柱型でありますので、昭和四十年代前半なのは確實だらうと推察致します。 さう云ふ譯で、此處から四キロ程の區間、同樣の規格鈑橋が何本も架つて居りますので、のんびりと見て行く事に致しませう。 不取敢、全て左岸側から見て行きます。 |
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横から見ますと、御馴染八幡製鐵にトピー工業さんと、書いて無いのであります。 えゝ、多分此方再塗裝での色だと思はれるのでありますが、主桁も高欄も、金屬の部分は全て緑色に塗られて居りまして、元々の面影はすつかり御坐いません。 でも其分、橋の壽命は伸びるのでありますから、喜ばしい事だと思ひます。 まあ、安心して見てゐられる、御馴染の型であります。 |
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排水桝には鑄物の排水目皿が取附られて居ります。 而も、内部迄きちんと塗裝されて居りまして、丁寧な仕事振りが伺はれます。 |
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次は下る事約四百米の處に位置する此方の橋であります。 右手に地區の境界を示す立札が在りますが、"協"と云ふのが分りません。 地圖で確認致しますと、橋の中央から右手、上流側が上稻毛田地區で、下流側が稻毛田地區と成つて居りました。 して、此方も緑色に染つて居ります。 おや、何かガアドレイルに取附られて居りますね、見てみませう。 |
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富士山橋。 成程、さう云ふ名前でありましたか。 但し「ふじさん」なのか「ふじやま」なのか讀方迄は不明であります。 と云ひますか、まさか植樹祭に合はせて命名し度とかと云ふ譯では無い、でありますよね。 併し、一體何が打當つたのでせうか、此處。 因に、丁度銘板の上邊に見える盛上つた丘の樣な處、首無し地藏塚古墳と云ふさうであります。 |
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御次は更に一キロ弱程下つた處に架る、此方であります。 因に、此方は初囘訪問時の皇紀二六七三年十月廿九日の冩眞であります。 併し綺麗な黄緑色に塗られたガアドレイル高欄であります。 新緑の季節等には、周圍の風景に良く馴染み、景觀に合つてゐる事だらうと推察致します。 此方も白い板が附て居りますから、きつと橋名が書かれてゐるのでせう。 |
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田島橋。 平成七年度の栃木縣植樹祭、此近邊、若かしますと直傍の富士山自然公園で行はれたのかなと思ひ一寸調べて見たのでありますが、 流石にもうネツト上に情報は見當りませんでした。 |
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して、此方田島橋の場合、主桁は朱色に塗られてゐるのであります。 若しかしますと、之が元々の色なのでありますかね。 して、高欄は長壽化の爲に黄緑色に後年に成つてから塗られた、と云ふ處でせうか。 |
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但し三年後に再訪致しました處、主桁も高欄も、すつかり青色に塗られて居りました。 黄緑色時代が貴重な冩眞に成つて仕舞つた樣な感じでありますかね。 |
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此方は田島橋から三五◯米弱、緑色の名稱不明物件であります。 |
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成程、塗裝の剥れ具合から察しますに、緑色の前は黄緑色だつたのでありますね、 して、多分元々は白色だつた、と云ふ感じでせうか。 |
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五百米程下りました。 此方は青色であります。 |
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以前は黄緑色だつた樣であります。 ネジがわやに成つたのか、代りにガアドレイルボルトが使用されて居りますが、何と無く浮き氣味なのは御愛嬌と云ふ感じでせうか。 |
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途中、栃木縣道三三八號線の橋を通過しまして、前の橋依り下る事約一キロ二百米、此方は緑色であります。 |
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更に三百五十米弱程下つた此方は青であります。 此冩眞自體は初囘訪問時の冩眞でありますが、もう結構塗裝が痛んで來てゐる頃合でせうか。 |
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其が三年後、皇紀二六七六年には御覽の樣に再塗裝され、綺麗に成つて居りました。 排水桝迄塗つて有りますので、丁寧な仕事振りが伺はれます。 之で芳賀町の大川に架る規格鈑橋群は全て見終つた筈であります。 途中何本か新しい橋、と云つても昭和五十年以降と思しき橋も當然架つてたのでありますが、 其は今囘の趣旨とは違ふので取上ませんでした。 まあ、斯う云ふ規格橋も、氣附ば其内見無く成る樣な時代に成つて行くのでせうね。 以上、御附合有難う御坐いました。 |