2673年 10月 15日 探訪
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【多田羅橋】
依り六百米程下流側、市貝町内の小貝川最下流部に架る橋に遣つて來ました。 此方は太郎坊橋であります。 途中にも一本橋が架つてゐるのでありますが、其方は河川改修に因り河川自體の位置も變り、其後道路も線形改良されて居りますので、昔の面影は無く成つて居りました。 でありますので其方は割愛して居ります。 扨、話は此方に戻しますが、御覽の通りの状態であります。 矢張頭でつかちなのが災ひしてゐるとしか思へ無いのでありますが、如何云ふ具合に壞れてゐるのかも含めて、此方右岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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太郎坊橋。 毎度御馴染の、と云ひますか、もう拙の中では市貝町の橋の親柱は逆傾斜と云ふ位に定着した意匠であります。 併し此處の橋名の由來は何なのでせう。 |
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右岸下流側は跡形も無く見事に根元から消失して居ります。 わはは、彼の形でありますものね、其は何か有れば斯う成つて仕舞ふのも仕方が無いと思ひます。 事實、 【上根橋】 は三本消失して居りましたしね。呵呵 |
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横から見ました。 所謂鈑橋と云ふ物でありますね。 何か此方も微妙に左岸側が歪んでゐる樣に見えるのでありますが、如何でせう。 さう云へば、桁の色が此方は違ふのでありますね。 別段決まりが無い、と云ふ事なのでせうか。 其と、斯う云ふ年代の橋を見る時には同時に先代橋の痕跡が無いか如何かも見るのでありますが、此方は分りませんでした。 |
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1970年3月、栃木縣建造であります。 まあ、と云ふ事は、此邊の河川改修は此年代に行はれたと云ふ事でありますね。 |
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して、例の高欄の鐡管の下段側の位置なのでありますが、四四年の物と四六年の物との丁度中間位と云つたら良いでせうか、位置が其々違ふのであります。 寫眞を見比べると「嗚呼、成程」と分るのでありますが、一年毎に少しずつ下がつてゐるのが實に興味深いであります。 では、左岸側へ移動致します。 |
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嗚呼、此方も見事に、であります。 多分、ほぼ間違無く此方には太郎坊橋の銘板が附た親柱が在つた筈であります。 併し折た親柱の部分でありますが、斯う云ふ具合に斜めにぽきんと逝つてゐるのでありますね。 正直、鐡筋は何處だと思つたのでありますが、橋臺側にしつかりと入つてゐると云ふ事では無いかも知れ無いのでありますね。 矢張或る意味萬が一の時を考へますと、橋を守る事が先決の役目だから、と云ふ事なのでせうか。 然しまあ、見事な折振りであります。 まあ、あの意匠でありますからねえ、實際。 |
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小貝川。 此處で不思議なのでありますが、何故に下流側の親柱だけ消失してゐるのかが不思議であります。 前後の線形的にもアレだと云ふ感じでは御坐いませんし、打當て破壞する程衝撃つて一體如何云ふ事なのかと不思議なのであります。 まあ、皆さん飛ばし過ぎとかさう云ふ事なのだらうとは思ふのでありますが、ね。 さう云ふ所爲か、斯う云ふ年代以降すつかり見られ無く成つた意匠と云ふ點では歴史的價値が有ると云へるのでは無いでせうか。 何も此處だに限つた話では御坐いませんが。 以上、御附合有難う御坐いました。 |