2677年 10月 17日 探訪
此方は、國鐵日光線の下野大澤驛から七百米程北東に行つた處、田川に架る橋であります。 今では住宅街の一角に在る橋と云ふ感じでありますが、道の姿からも想像に難く無い樣に、元々は田園地帶の中の昔からの道筋の橋と云ふ感じだつた事でせう。 扨、さう云ふ、若かすると歴史的な物件かも知れ無い橋が如何云つた樣子なのか、此方左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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此方左岸下流側、親柱は消失し、基礎部分が殘つてゐるだけでありました。 | |
上流側は途中で折て居ります。 して、如何やら銘板が附てゐた形跡は無く、直接文字が彫られてゐた譯でも無い樣であります。 |
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さうして、此方の橋の一番の特徴と思ふのでありますが、此高欄の意匠が斬新であります。 丸で波打つてゐる、と云ふかさうなのだと思ふのでありますが、他では見無い、一度見たら忘れられ無い意匠であります。 地覆の延長的な物としましても、手間暇掛つて居りますよね。 では右岸側へ移動致します。 |
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殘念、右岸上流側も親柱は消失して居ります。 | |
下阿久戸。 をゝ、此方唯一殘つてゐる親柱な上に、銘板も附て居りました。 所謂、石か燒物の白い銘板でありますね。 唯、之が橋名なのか單に地名なのか不明でありましたので、名稱不明と云ふ事にして措きました。 |
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横から見ました處、をゝ、之は昔乍のT字桁でありますね。 手荒く美しいであります。 と、おやおや、親柱の横に工事銘板が附てゐるではありませんか。 是は可也の年代物なのでは無いでせうか。 併し田川、此處迄上流に來ますと、宇都宮市内の川幅が丸で嘘の樣であります。呵呵 |
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竣工一九五一年一二月。 をゝ、素晴しい。 昭和廿六年でありますか。 若かしますと、今迄見て來た戰後物件の中でも可也早い時期の物件の一つでは無いでせうか。 と思ひ調べて見たのでありますが、同じ昭和廿六年物件としましては、 【馬頭町大内 馬坂橋】 【黒羽町須賀川 波止橋】 の二本だけでありました。 終戰後、やつと國内の公共事業が再開出來る輪鵜に成るのに六年程は掛つたと云ふ證據でせうから、斯う云ふ歴史的證人の樣な物件は末永く殘つてゐて欲しい物であります。 併し、名前の「き」の字に「㐂」を遣つてゐるの、初めて見ました。 實は案外普通に遣はれてゐた漢字なのでありますかね。 拙は二郎系拉麺屋さんでしか見た事が無かつたものでありますから。 以上、御附合有難う御坐いました。 |