2678年 7月 31日 探訪
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此方は
【今市市平ケ嵜 行川橋】
依り九百米程行川を上つた處に架る、栃木縣道一五〇號線の橋であります。 まあぱつと見に歴史的物件だらうなと云ふ感じなのでありますが、其にしましても手前側と奧側では何か橋の樣子が違ひます。 一體如何云ふ事なのか、此方右岸平ケ嵜側から見て行き度いと思ひます。 |
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行川。 と書いても良く見えませんね。 まあ親柱は質實剛健な感じであります。 |
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斯うして見ますと分り易いでありますかな。 併し、銘板の意匠を見る限り、何方かと云ひますと昭和卅年代風と云つた感じであります。 【鹿沼市板荷 越路橋】 の樣に案外新しいのでせうか。 |
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白崖橋。 正直、字體も工業規格的な物と云ふ感じでありますし。 |
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高欄は混凝土板に楕圓の穴が開いた意匠であります。 と云ひますか、橋自體歪んでゐるのでせうか。 其共、左右で別物が架つてゐるのでせうか。 何か、此方左岸側は直線的でありますのに、右岸側は氣持太鼓橋の樣な感じに見えますし。 |
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して、此方が左岸側の桁の排水桝であります。 穴其儘でありますね。 |
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さうして、此方が右岸側の桁の排水桝であります。 もう明かに後年に成つてから施工された物だと云ふ感じでありますね。 今時の用語で書くとグレエチングと云ふ物でせうか。 では右岸側へ移動致します。 |
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行川。 はい、出ました。 如何にも戰時中の物資供出で銘板が外され、戰後、昭和四十年前後頃に再び附られたであらう琺瑯引若くは塗裝仕上と思しき銘板であります。 と云ひますか、親柱の仕上り具合も左岸側とは全然違ひますね。 |
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白崖橋。 成程、當時物其儘の姿でありますと、ちやんと笠石も附られてゐたのでありますね。 |
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横から見ますと、之は混凝土T字桁でありますね。 橋脚が尖頭型では御坐いませんし、橋臺を見ますと桁が載つてゐる部分が薄いので、昭和に入つてからの物と云ふ事で良いのでせうか。 多分戰前物件、遲く共昭和廿二年迄の物件だと思ふのであります。 航空冩眞では、昭和廿二年以來、ずうつと同じ姿だと思へますので。 |
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因に、左岸側から見ますと、左岸側の桁は少し薄く成つてゐる樣なのであります。 橋脚を見て戴くと分るのでありますが、左岸側の桁が載つてゐる部分は、明かに右岸側の部分依り厚味を増して居りますから。 と云ふ事で、考へられる事は一つでありまして、水害か何かで左岸側の桁が壞れたか流出したかで、此方側だけ架設し直したのでは無いかなと云ふ事であります。 但し、其が戰前なのか戰後なのかは分りませんし、正確な竣功年を知り度く共、色々調べたのでありますが何處にも記述が無かつた物でありますから。 まあ、斯う云ふ橋は長く殘つてゐて欲しいな、とは思ふのでありますが、如何やら架替計畫が有る樣でありますので、其前に冩眞に收める事が出來て良かつたなと云ふ感じであります。 以上、御附合有難う御坐いました。 |