芳賀町下高根澤 名稱不明橋 【一】

2674年 5月 19日 2676年 8月 1日 探訪

 此方は、野元川が芳賀町に入つてから五五◯米程下つた處に架る橋であります。

 航空冩眞で確認致しますと、野元川は大凡昭和四十年頃から四五年頃に掛て改修されてゐる樣でありまして、當然其頃に架橋されてゐる橋が多い樣であります。
其が顯著なのが下高根澤地區と云へば良いのでせうか、同時に名稱不明橋も其頃の物が多い樣であります。

 でありますので、今囘は其中でも所謂規格物の鈑橋物件を、不取敢三本程取上度いと思ひます。

 先づ此方、大した距離では無いと思ふのでありますが、二徑間の橋でありました。

 微妙に長さが當時の規格と合は無かつたのでせうか。
角柱と古初代のガアドレイルと相俟つて、何か可愛らしい雰圍氣を釀し出して居ります。

 では此方、右岸側から見て行きます。
 面白いのは、丸で大正期の橋の樣に橋脚が尖頭型だと云ふ事であります。

 一瞬大正時代の物件の再利用かと思つて仕舞ましたが、まさか其な筈は無いと思ひ航空寫眞を色々と見た結果、昭和四一年には未だ架つて居らず(抑々河川改修も未着手)、 昭和四三年の寫眞で確認出來る状態でありますので、竣功は昭和四二、三年頃と云ふ處でせうか。

 さう考へますと、何故此形状に決めたのかが興味深い處であります。
 まさかとは思ひますが、型枠組むのが曲面依り簡單だつたから、と云つた理由では無い、でありますよね。
 二年振に再訪致しました、色が變つて居りました。
 結構まめに手入されてゐる樣でありますね。

 さう、高欄は桁毎に獨立してゐる樣であります。
 此方は上記の橋から一キロ程下つて來た處に架ります物件であります。

途中一本用水路が合流して居ります爲か、川幅も少し廣く成つて居りますので、此方は二徑間でも納得であります。

 して、此方もぱつと見に同一でありますので、竣功年度は同一頃と見て良いのだと思ひます。
 此處からは再訪時の冩眞でありますが、矢張塗裝された後の樣であります。

 まあ、ぱつと見には一本目と同一でありますが、良く見ると幅員と地覆の幅が違ひます。
まあ、如何でも良い部分かも知れませんが。

 と云ふ事で、此方は左岸側から見て居ります。
 矢張高欄は桁毎に分割、と思ひましたら、此方は上部が接續されて居りました。

 まあ、大した差では無いと思ひますがね。
 當然の樣に尖頭型の橋脚なのでありますが、何か、經費と手間削減の爲に採られた策の樣に思へて來ました。
 排水桝は至つて簡素であります。
 此方は栃木縣道六九號線から三百米程上の物件であります。

 まあ、此方は昭和四一年には確認出來ますので、古參の部類かと思はれます。
さうして、確實に上記二本の橋依りも長く成つて居りますね。

 之なら二徑間でも納得であります。
 左岸側から見て居ります。

 まあ、違ひが有るとしますれば、ガアドレイル高欄の柱の數が十本から十二本に成つてゐると云ふ處でせうか。
 安定の尖頭型であります。

 併し斯うして見ますと、多分型枠の經費と手間の爲と云ふ豫想で合つてゐる樣に思へて來ます。

 但し全體の姿、全く以て完成された域の姿だと思ひます。
 嗚呼、工事銘板が消失して居ります。

 ううん、之は撤去されたのでせうか、其共盜難被害に遭つたのでせうか。
 此方の高欄は全體が一體と成つて居ります。
 排水桝、此方も至つて簡素であります。
 最後、何氣無くガアドレイルの螺旋を確認しようと思つた處、古い塗裝が覗いて居りました。

 如何やら元々は此方 【富士山橋、田島橋他大川規格橋群】の田島橋や此方 【五行川名稱不明橋二本】 の樣に緑色だつたと云ふ事でありますね。
さうして、元々は白色だつたのでせう。

 まあ、規格品とは云へ、良く觀察しますと面白い特徴を有してゐる場合が有ると云ふ事を教へて呉れた物件達でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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