藤原町大原-瀧 立岩橋

2680年 3月 17日 探訪

 此方は 【藤原町大原-小佐越 萬年橋】 依り二キロ六百米程鬼怒川を上つた處に架る、國道一二一號舊道の橋であります。

 舊道とは云へ現在でも國道指定でありますが、今や鬼怒川右岸側に有料部分も含て國道指定のバイパスが出來て居りますので、まあ舊道と表記致した次第であります。

 扨、ぱつと見は高欄の意匠から今時の橋だと思つてゐたのでありますが、航空冩眞を見て居りました處、昭和卅八年の物に冩つて居りましたので、 之は案外年代物なのだと思ひ、今囘探訪し度次第であります。

 成程確に、親柱を見ますればさう云ふ年代の意匠をしてゐると分りますが、其實如何でせうか。

 と云ふ事で、此方左岸側から見て行き度いと思ひます。

 因に、此方左岸側が大原地區、右岸側が瀧地區であります。
 鬼怒川。

 今迄何處でも見た事の無い、とは云へ何と無く懐しさを感じる樣な意匠の親柱であります。
而も意匠だけでは無く、表面は洗出仕上と可也手間の掛つた物であります。

 銘板の河川名の文字、流暢な字體でありますので、之は發注者首長の直筆でせうか。
又、河川名の下に羅馬字で「KI NU GAWA」と書かれて居り、國際的な觀光地とし度かつた當時の意氣込が感じられます。

 銘板が黒御影石と云ふのも"らしい"でありますし。
其と、橋臺依り隨分と手前に親柱が設置されて居りますが、之は轉落防止も兼てゐるのでせうね。
 此方は殘念な事に工事の看板で銘板が見られませんでした。

 と云ひますか、もう終はつてゐるなら早々に撤去して呉れても良いでせうに。呵呵
 立岩橋。

 何とか看板の隙間から銘板を撮影しました。

 矢張流暢な字體でありますので、首長の直筆の樣な感じでありますね。

 「橋」が變字體でありますので、昭和卅年代の雰圍氣を感じます。
 親柱裏側は斯う云ふ具合であります。
 高欄は今時の物が附て居ります。
但し地覆は其儘で設置されてゐる樣でありますし、一寸ネツトで調べても見たのでありますが、廿一世紀初頭頃には斯樣な姿だつた樣であります。
之が此處數年でありましたら、地覆も大幅に改修されて嵩上もされてゐるでせうから、今世紀初頭の施工だらうとは思ひます。

 自分が夜な夜な自動車で徘徊してゐた廿世紀中は如何だつたのか、記憶に御坐いません。

 まあ多分、 【鹽原町關谷 囘顧橋】 の樣な高欄だつたのでは無いでせうか。
 排水桝。

 舖裝は結構盛られて居ります。

 では右岸側へ移動致します。
 まあ此方もさう成りますよね。
 昭和36年11月30日竣工。

 矢張さう云ふ年代でありましたか。
 うゝむ、逆光で一寸讀辛いでありますね。
 たていわばし。

 材質が何であれ、文字が彫られてゐる型の銘板は光線の具合で見辛いのが難點であります。

 して、流石に平假名の方には羅馬字は彫られて居りません。

 嗚呼其と此方、場合に依つては楯岩橋共呼ばれる樣でありますが、其は近くの觀光名所が楯岩だからでありますかね。
 横から見た處、此方右岸側に一つ合成鈑桁が附、基本的には拱橋でありますかね。
 も少し見易い場所から見た姿であります。

 少し調べた處、此方は拱橋でもランガア桁と云はれる構造の樣であります。
素人の拙には良く分ら無いのでありますが、如何やら基本的に桁橋に近い樣であります。
道理で全體的にアヽチ部分が華奢な印象、且つ直線的なのでありますね。

 併し斯うして見ますと、中々に美しい橋でありますね。
斯うしてじつくり見る機會が出來て手荒く良かつたであります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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