馬頭町大山田下郷 大河内橋

2675年 10月 19日 探訪

 此方は 【馬頭町健武 舊新橋跡】 依り國道四六一號を一キロ程北上した處、武茂川に架る橋であります。

 ぱつと見の親柱の意匠が此方、 【小川町三輪 三輪橋】 と同樣な事から多分に同世代頃の物件かと思ふのでありますが、扨、如何な物でせうか。

 では此方左岸側から見て行きます。
 大河内橋。

 古い地圖を見ますと、「オホカウチ」では無く「ダイカウチ」でありました。
して、現在では地區名が大山田下郷と成つて居りますが、同樣に古地圖では大川内と云ふ表記に成つて居りました。

 多分、さう云ふ兼合から、若くは其に因んでの斯う云ふ命名でせうか。
 武茂川。

 苔生した具合が良い鹽梅と云ひますか、素敵な雰圍氣を釀し出して居ります。

 右手、山肌なのでありますが、親柱迄との間に何か不自然な間が在るのは何故なのでせう。
 排水桝。
 高欄は混凝土板を二枚縱に使用しました意匠であります。

 上記の三輪橋も元々は斯う云ふ高欄だつた樣でありますので、矢張ほぼ同年代と見て間違無いでせう。

 では、右岸側へ移動致します。
 と思ひ乍川面を見つつ移動して居りますと、川牀から覗く木製橋脚の跡が見えるでは御坐いませんか。

 而も良く見ますと、其土臺の部分も殘つてゐると云ふ感じに見え無くも無いであります。

 まあ、不取敢現橋を先に見て仕舞ませう。
 大河内橋。

 拙的に大河内と云へば傳次郎。

 はい。
 武茂川。

 川牀の堰と云ふのか何と云ふのか拙には分りませんが、壯觀な造りであります。
 此方は左岸側からでありますが、横から見ますと、之はT字桁で間違無いと思はれます。

 地覆部分に工事銘板が附られて居りますね。
 昭和四十年三月竣功でありますか。
 扨、では左岸側から舊線形部分を見て行き度いと思ひます。

 橋の手前から右手に廣がつて行く樣に見えるのがさうでありますね。
 何故直線的な儘に架橋し無かつたのか謎なのでありますが、此位置が其迄は最適だつたと云ふ事でせうか。
 渡河地點からの眺めであります。
 橋臺も殘つてゐる樣であります。
 して、唯一殘る橋脚跡であります。

 漂着物がアレではつきりした事は不明でありますが、四本程柱が建つてゐたのでせうか。
又、其下部には土臺も殘つてゐるかも知れ無いと思つたのでありますが、はつきりとした事は分りませんね。

 唯、深みに成つてゐる部分との差異がはつきりして居りますので、若かしますと殘つてゐるのかも知れません。
 右岸側の橋臺も健在であります。
 木橋が載つてゐるだけだからでせうか、混凝土橋の橋臺の造り依りも簡素と云ひますか、簡單な造りの樣な氣が致します。
 右岸側からの眺めであります。

 恐く、昭和四十年迄は此處に木橋が架つてゐたのだと思はれますが、何か、其は良い景色だつたのでは無いでせうか。

 現橋も結構な年代物で喜んで居りましたが、まさか其直傍には木橋時代の痕跡が殘つてゐるとは露も思つて居りませんでしたので、或る意味手荒く嬉しい贈物でありました。

 個人的には、之以上觀光地化し無いで、でも此方も知つて欲しいなと云ふ感じの處でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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