烏山町中央-上境 栃木縣道十二號線舊、舊々道 【其三】

2673年 10月 8日他 探訪

 【其二】からの續きであります。

 【現在地】

 扨、では廢止された場所での、多分初代宮境橋が出來てからの道筋を辿らうと思ひます。

 何時頃の竣功か分りませんが、昭和十五年の地圖では描かれてゐる事から、明治四一年以降昭和十五年迄の間に架橋されたのは確實であります。

 して、橋脚が混凝土であらうと推察されますので、大正以降なのでは無いかと推察されるのでありますが、まあ、 さう云ふ時代に此處から宮境橋へ道路が接續されたのは確實であり、其後二代目宮境橋と成り、道路が擴幅されたのも間違ひ無いだらうと推察致しました。

 唯、其でも流石に此曲率では大型車には嚴しい道だつたのでは無いでせうか。

 其に、夜間や醉拂運轉の車とかが那珂川にアレだつたとか無かつたのか、一寸氣に成る處であります。
 で以て、舊々道の入口から此處迄は近隣住民の爲晩年に成り更に擴幅されてゐるのでは無いかと感じた次第でありまして、 此處の幅員が抑々の往時の姿を殘してゐるのでは無いかなと思ふ譯であります。
 其でも橋の直前(直後)で直角に折れてゐるのでありますもの、當然用地買收して眞直に改修致しますよね。

 因に、前に見えてゐる主塔が新に架橋された烏山大橋であります。
 さうして、 【宮境橋跡】と成る譯であります。

 路面左手、微に往時の曲率の儘であらう舖裝の繼目が見られますね。
氣の所爲かも知れませんけど。

 其と、消された中央線と40の道路表示が往時を偲ばせます。

 併し、廢止後直に其姿を撮つて措けば良かつたと今でも悔やまれます。
 【現在地】

 左岸側、上境地區へ遣つて來ました。

 此岩、何か意味深な氣がするのでありますが、此場所に架橋若しくは渡しの船着場だつた時代の何か名殘なのでせうか。

 ま、不取敢眼前若干右手に河原へ降りる處が見えて居ります。
 扨、では現道との合流點に向て出發致します。

 斯うして見ますと、三代に亙る渡河地點の變遷が一望出來ると云ふ譯であります。
因に、宮境橋が架かつてゐた地點は、二段目に見える位置であります。

 此處も開鑿されてゐ無ければ、きちんと上陸出來る陸地では無かつたと思はれますので、先人の苦勞が偲ばれる處でもありますね。
 宮境橋跡の袂であります。

 此直角具合が手荒く凄いのでありますが、元々の道を生かしての架橋でありますから、當時としましては致し方無しと云ふ處だつたのでせう。
きつと、之でも後年に成つて外側の部分は依り開鑿されてゐると思ふのであります。

 併し、今では長年に亙り半ば廢道状態でしたのでせうから、路盤の兩側は結構植物が侵蝕して來て居りまして、輕自動車が通れる程度の幅しか夏場は通れ無い状態であります。

 宮境橋跡の報告にも書きましたが、片側の親柱、歩道が併設される時に取去られたのでせうか。
初期型古ガアドレイルから推察しまして、限り無く昭和四五年に近い頃の施工だつたのでは無いかと推察致します。

 嗚呼、さうか、其當時で既に舊々道部分は歩道扱に成つたのかも知れません。

 と云ふ事で、先づは舊々道側から進みます。
 實は此寫眞、年が明けて一月七日に撮直した物を使用してゐるのでありますが、植物が枯れた御蔭でガアドレイルの外側、 崖のぎりぎりの位置に最初期の物であらうガアドレイルが殘つてゐるのを發見出來ました。
手荒く錆度り曲つてゐ度りで結構アレでありますが、現役時代を偲ばせる物であらうと思はれます。

 支柱迄は確認出來無かつたのでありますが、角柱でありましたら間違ひ無く感動物でありました。
 して、其處から先は車止も無い状態でありますので、可也交通の難所だつたに違ひ無いと思はれます。

 だつて、右手は急峻な崖でありますもの。

 今は草で隱れてゐる分、依一層何處迄が陸地なのか不明でありますので、恐しくて近寄れませんでした。
 と思ひ恐る恐る進みました處、ひつそりと埋れる樣に柵が在りました。

 でも之、自動車に對して有效だつたのでせうか。

 と云ひますか、何か變形してゐるのが恐いのでありますが。
 成程、此處迄來れば柵が在りますが、之では實際、自動車に對しての效果は期待薄かつたのでは無いでせうか。

 否、冗談拔きで、下つて來て其儘川に轉落したとか無かつたのでせうか。

 因に、左手も急峻な崖のが御分かり戴けるでせうか。
之では咄嗟に對向車を避けるとか無理な話でありますよ。

 【最終囘】に續く。

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