氏家町蒲須坂-宇都宮市川俣町 日本鐡道(國鐡東北本線)ノ遺構等 【其三】

2675年 12月 8日 探訪

 【其二】からの續きであります。

 【現在地】

 扨々、どんどんと行きませう。

 此方は叶川に架つてゐた橋脚跡を探して辿り着いた場所であります。
昔乍の風景はとつくの昔に無く成つて居りますが、辛うじて右岸側には橋臺跡が在るとの事で、不自然に折てゐる此流れの邊がさうだらうなと思ひ、良く觀察致しました。

 因に、鬼怒川橋梁から此處迄の間、之が若かして元の線路跡の築堤だらうかと思へさうな所も在つたのでありますが、航空冩眞で確認致しますに、 西暦1990年代初頭に此一帶は圃場整備をされ、完全に別物と化して居りましたので、一切其等を匂はす痕跡は無く成つてゐる物と思はれます。

 唯、昭和五十年頃の航空冩眞では、たぶんさうだつたのかも知れ無いと思しき田圃の境界等が見えますので、其等で線路跡を想像するしか無いと思はれる次第であります。
 して、丁度堰の石積の上邊、木の枝で見辛いでありますが、石や煉瓦の構造物が微に見えるのが御分り戴けるでせうか。
 と云ふ事で、西鬼怒川方面から入つて來ました。
正直云ひますと、先づ其方の橋臺跡を發見出來ましたので、其儘築堤を傳つて來れたのでありますが、まあ其は纏める上でアレでありますから措いとゐて、 斯う云ふ具合に其也に原型を保つて居ります。

 手前側、煉瓦が斜に崩れてゐる樣に見えますが、元から斜に削られてゐる部分が主體だと云ふのが、横の部分の煉瓦の整合性を見れば御分り戴けると思ひます。
< 之は多分、草川の橋梁もさうだつた樣に木橋だつた事を傳へる部分なのでは無いでせうか。

 多分、頬杖橋と云ふ形式だつたのでは無いかと推察する次第であります。
 多少上部が崩れて居りますが、其也に殘つてゐる物と思はれます。
 下流側から見て居りますが、矢張角の部分が弱く成り易いと云ふ事でせうか。
 ううむ、結構早くから崩れてゐる樣にも見受られますので、何かに石を使ふのにアレされたとかつて事は無いのでありますかね。
 と、云ふ樣な感じであります。
 して、確か何處も彼處も線路と直交する樣に、流れを變へたと云ふ話でありますよね。
でありますので、不自然に曲つてゐる此處を怪しんで發見出來たのでありますが。

 と云ふ事で、踵を返して西鬼怒川方面に進みませう。
 築堤は基本的に健在であります。

 唯、木々は立派に育つて居ります。
 之は植林されてゐる、と云ふ事なのでありますかね。

 尤も、變に整備されてゐる依りも、斯う云ふ具合の方が歴史的にも"らしい"感じで好きでありますが。

 【其四】に續く。

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