矢板市本町 京町橋

2673年 8月 27日 探訪

 内川に架る日光北街道、現國道四六一號の橋であります。

 街道筋の橋でありますし、如何にも古風な高欄からずつと氣に成つてゐた物件なのでありますが、此處を通るのは常に夜間、而もと云ふか當然と云ふか、 自動車の時だけだつた物でありますから、中々じつくりと見るる機會が御坐いませんでした。

 でありますので、今囘は自轉車で來て居りますのでじつくりと觀察する事に致しませう。

 では此方、左岸側から見て行きます。
 とは云へ、夜間自動車の前照燈に照し出される高欄は凄く魅力的だつたのでありますが、晝間近附て見ますと、 もう遠目にも西暦1960年代の物件だなと判つて仕舞ひまして、昭和廿年代や、出來れば戰前物件を期待してゐただけに一寸落膽致しました。

 でも其也の古物件なのには變り無いでありますからアレでありますが、おや、中央に向つて欄干が歪んでゐると云ひますか、若干落ち込んでゐる感じであります。
之は劣化してゐると云ふ事でせうか。

 まあ高欄の形は如何にも昭和卅年代物件、上下二本の混凝土管を使ひました定番的意匠であります。
 して、桁や橋脚を見たのでありますが、嗚呼成程、全て補強されてゐると云ふ譯でありますね。
而も、桁を載せるのにも鋼材で応力分散させてゐる樣でもありますし。

 而して、之は耐震補強なのか震災後の補修なのか分りませんが、架替へる依りはマシだつたと云ふ事なのでせうか。

 因に桁でありますが、之は單純桁と云ふかスラブ形式と云ふのか、さう云ふ桁だと思ひます。
多分。
 京町橋。

 中々洒落た橋名でありますが、此處は本町。其名前の由來が知り度いであります。

 之は拙個人の偏つた想像なのでありますが、昔は藝者さんとかが居た繁華街、若くは洒落た御店が立竝ぶ街の一角だつたから、と云ふ名殘りの爲の名前なのでせうか。

 併し如何にも京=舞妓さんとか藝者さんと云ふ印象が眞先に浮んで來るのでありますが、其ぢや外人さんと同じ想像力と云ふ事でありますかね。
 して、親柱の内側に工事名版が附られて居りまして、如何にも西暦1960年代物件の特徴だなと思ひつつ見ました處、嗚呼矢張ねと云ふ感じでありました。

 1963年(昭和卅八年)3月竣功であります。

 嗚呼、でも此一等橋と云ふのが一寸意外でありました。
と云つても舊街道筋でありますから、當然と云へば當然なのでせうか。
 内川。

 達筆でありましたので、ぱつと見で白川と讀んで仕舞つたのは内緒であります。

 併し、何で橋名の方は白い塗料が塗つて有る樣な感じでありましたのに、此方側は其儘の樣な状態なのでせう。
單に落ちたにしましても、斯くも差が出るのでせうか。

 嗚呼、何か親柱が曲つてゐる樣な冩りでありますが、拙の撮方が曲つただけであります。

 では、右岸側へ移動致します。
 京町橋。

 嗚呼、多分此方は左右兩眼で對稱な銘板でありますね。
其も此年代の特徴だと思ひます。

 して、親柱の意匠は、路面側下側に向つて若干廣がつてゐる樣に成つてゐる樣であります。
 さうして、當然の樣に此方にも親柱内側に工事銘板が附られてゐるのでありますが、其處で一つ疑問點が生じました。

 之、此方右岸側は西暦1966年(昭和四一年)3月竣功に成つてゐるのでありますが、此違ひつて一體何に由來する物なのでせうか。
幾ら何でも左右の桁で完成迄に三年の違ひ何て有る譯無いでせうから、災害、若しくは改修で片側だけ更新した。
と云ふ事も餘り考へられませんし、謎であります。

 正直、河内町下橋の 【西川橋】 も何故か其々の桁で竣功年に一年の開きが有るのでありますが、此處迄違ひますと氣に成ります。

 まさかとは思ひますが、鑄造時に片方は間違つて仕舞つた、とかでは無いでありますよね。
 内川。

 して、上記の件で一寸氣に成りまして、航空冩眞を見てみました。
不取敢昭和卅八年の冩眞では現在と川幅等も含て隨分と違ひまして、昭和四四年の冩眞で初めて現在と同一の姿に成つてゐる、と云ふ具合でありました。

 と云ふ事は、若しかして昭和卅八年當初は一徑間だつた物を、昭和四十年頃に河川改修計畫が持ち上るも、未だ架橋間も無い爲其を活かす樣左岸側は其儘に橋脚と右岸側を作り、 二徑間にした爲に兩岸での竣功年が違ふと云ふ事なのでせうか。

 でありましたら、高欄の柱が西暦1965年以降の物件に比べて細身なのも納得出來るのであります。

 も一つ考へられますのは、左岸側の橋臺だけを活かして、桁、橋脚、右岸側の橋臺は新規の物件と成つた、と云ふ處なのでありますが、 一體何方が實際の處に近いのか、否、さう云ふ謎が有るから面白い物件だなと思ひました。

 勿論、橋名も含てでありますがね。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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