2675年 12月 15日 探訪
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栃木縣道二七二號線の終點、縣民の森の中の交叉點の現道の内側に、ぽつんと忘れ去られたかの樣に佇む舊道、舊橋が御坐います。 |
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其が此方、弓張橋であります。 斯うして實際には未だ存在するのでありますが、地圖上からは末梢されて居りますので、供用は終了してゐると云ふ事なのでせう。 ぱつと見に其也の年代だと分りますが、他所では未だ未だ現役の物件も多數御坐います。 扨、如何して斯う成つたのか、其現在の状態は如何成つてゐるのか、此方左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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昭和三十六年九月三十日。 何と之は珍しい、日附迄が書かれて居ります。 丁度上半期末に竣功と云ふ事にしたと云ふ事でせうか。 其に、如何やら銅では無く鐵の銘板の樣でありますので、何方かと云ひますと昭和廿年代の樣式に倣つて作られてゐるのでせうか。 |
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ゆみはりばし。 竣功年度に平假名表記、是は全ての銘板で欲しい情報は全て得られると云ふ事でありますね。 併し質實剛健的な意匠の親柱であり乍、上部の笠石、で良いのでせうか、結構立派であります。 |
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高欄は上部に混凝土管、下部に鐵管を使用した意匠であります。 さう、之は 【芳賀町與能 大橋】 と同一の手法でありますが、其意匠は丸で別物でありますね。 併し手荒く状態が良いと云ひますか、柱の上部の丸みに成る部分、未だきちんと角が立つた儘でありますよ。 でありますので、或る意味勿體無いと思へて仕舞のでありますが。 では、右岸側へ移動致します。 |
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一應は現道との高低差を埋る爲に舖裝を盛つた樣でありますが、供用廢止を考へますと、徒勞だつたのでは無いかと思へて仕舞ます。 |
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何と云ふ事でせう、銘板の存在價値が見事に無く成つて仕舞ました。 |
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でありますので、新橋の方に其解を求めたのでありますが、多分此方、宮川と云ふ表記だつたであらうと思ふのであります。 因に、現在の橋は昭和五四年竣功でありますので、栃木國體か植樹祭に間に合はせる樣にしたのでは無いかと推察致します。 |
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弓張橋。 何故に斯樣な名稱なのかと思ひましたら、少し下の方に弓張と云ふ地區が在るのでありますね。 でありますので、澤は違ふのでせうが、其名前、若くは、昔は此邊も弓張地區だつたからと云ふ事なのでせうか。 |
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左岸側の橋臺脇、混凝土の土臺の上に立派な石積であります。 して、其横の石積は目地が埋つてゐ無い空石積でありますよ。 手荒く素晴しい物が見られました。 |
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横から見ますと、矢張見事な混凝土T字桁橋でありました。 正に是ぞ混凝土橋、永久橋と云ふ感じでありまして、素晴しい見榮でありますね。 供用廢止されて居りますので、多分に此儘撤去される事も無くずうつと殘つて行く運命だと思ふのでありますが、 或る意味高原山地開拓の歴史的遺構としての價値を見出して貰へると良いなと思ふ物件でありました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |