矢板市幸岡-長井 剱橋

2673年 10月 21日 探訪

 此方は知る人ぞ知ると云ふ橋だと思ひます。

 と云ふ依り、地元の人以外は先づ通る事が無いのでは無いでせうか。
何しろ國道四六一號の舊道、と云ひますか、國道指定以前の日光北街道の元々の線形から分岐した道の先に在る物件でありますから。

 其で、まあ、では其が松尾芭蕉が通つた頃の日光北街道なのかと云ひますと、何か又違ふと云ふ話も輕く友人から聞きました。
如何やら當時はもつと山側、と云つても説明が難しいのでありますが、之橋依り少し北側に向ひますと芭蕉の句碑が在りますので、 其邊だつたのでは無いでせうか。
多分に此方の橋名にと肖つた劍神社とかが在るので、興味の有る方は地圖か何かで檢索して見て下さい。
一応寫眞は撮つて有りますが、一寸妖氣を纏つてゐる感じでありましたので、拙は使ふ氣全く無いものでありますから。

 とまあ、枕が長く成りましたが、えゝ、一見して西暦1960年代末期の物件であらう事は想像に難く無い物件であります。
きつと當時は斜めに廣がるのがモダアンだつたのでせう。

 では此方、右岸側から見て行きます。
 剱橋。

 「つるぎ」の字も現代では"劍"が一般的でありますが、剱とかの異體字も在り、舊字體でありますと劍、劔と成るのでありますね。

 さうして、如何でも良い事でありますが、「つるぎ」とは「つむがり(都牟刈)」の略言だと昭和十二年の廣辭林は宣つて居られます。

 何解な漢字を遣ひたがる邊、同じく矢板市内の 【晴昿橋】と共通する年代と云ふ感じであります。
 1966年3月、昭和四一年三月竣功でありますね。

 親柱や高欄の意匠を見て、大體其頃だらうなと思つて居りましたら矢張、であります。

 併し此年代、1960年代後半頃は親柱の内側に竣功年度の銘板を入れるのが決りだつたのでせうか。
觀察するには手荒く有難いので重寶して居りますが。
 宮川。

 何か藝能人とかをふと思ひ出しさうに成る河川名であります。

 して、さう、此年代は斯うなのに、何で行也逆樣の意匠にしたのでせう、1970年代前後つて。
だから折るのでは無いのかと、ふと思ふのでありますよ。
所詮重力が働く譯でありますから。
 高欄は混凝土の角柱と云ふか、角棒を使つた意匠であります。

 其と、桁毎に分割されては居らず、連續した型でありました。

 では、左岸側へ移動致します。
 剱橋。

 左岸側も漢字表記でありました。
出來れば平假名表記で讀みが知り度かつたのでありますが、多分「つるぎはし」で良いのかと思ひます。
 宮川。

 此方別な橋の袂で確認濟でありますが、濁らず「みやかは」でありました。
 排水桝。
 横から見ますとまあ、1960年代の一般的な二徑間混凝土桁橋であります。
RCなのは確認濟でありますが、單純桁と云ふかスラブ形式と云ふのか、T字桁なのかは不明であります。
其と、橋脚が末廣がりに成らず、眞直なのも此年代ならではなのでせうか。
後、橋臺の下は石積でありまして、此は元々からなのだと思ひます。

 架橋された1966年頃に此一體は河川改修が行はれた樣でありまして、劔橋の舊橋はほんの少し上流側に架かつてゐた樣に航空寫眞で見て取れました。

 石積では無く塊團を使用する樣に成るとか、鐡桁に變化して行くとかは、1970年前後に成る迄待た無いと現れ無い樣であります。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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