小山市下河原田 螢橋

2683年 1月 31日 探訪

 此方は 【小山市寒川-藤岡町緑川 緑川橋】 依り巴波川を四キロ程上つた所に架る橋であります。

 ぱつと見、如何にも古風な橋と云ふ感じでありますが、其實如何でせうか。

 と云ふ事で此方、左岸側から見て行き度いと思ひます。

 因に此方、多分栃木縣道一七四號線の舊道かと思はれますが、確かな情報が見附りませんでしたので、一應明記は避けた次第であります。
 立派な、多分之は花崗岩でありますかね、で出來た親柱でありますが、殘念乍銘版は消失して居ります。

 と云ひますか、何か洗つた醉うに綺麗な親柱であります。
何か基礎部分も新しいでありますし。
 丁度上の繼目邊から何かで銘板を外したのでせうか、其部分の痛みが激しいであります。
 上部には何か附いてゐた樣な穴が開いて居りました。
 此方は高欄共々年數相應と云ふ感じであります。
 可也強引に兩側から銘板を外したのでせうか。

 若かして、物資供出で外されたと云ふ事でせうか。
 高欄は普通に四角く穴が開いた意匠の樣でありますが、其下部分が斜に成つてゐ度りと、中々に凝つた意匠であります。
 排水桝。

 之は多分後年に成つてから施工された物でせう。

 では右岸側へ移動致します。
 此方側は元から親柱は無かつたのか、其共後年に成り線形改良の爲斯樣な擁壁に成つたのか不明でありますが、結構な年數が經過した樣な物に見えます。

 まさか標識柱の所に在るのが親柱、と云ふ事は無いでありますよね。
 何處迄が如何なのか分りませんでしたので、不取敢鐵柵の邊からも撮つて見ました。

 標識柱邊の物には不取敢銘板及其跡は御坐いませんでした。
 して、此鐵柵、良く見ましたら線路で作られて居りました。
 基本的に下流側の親柱は綺麗な樣でありますね。
 此方も派手に壞されて銘板が取られて居りますが、一應混凝土で補修、之は可也近年の樣に見えますが、成されて居りました。
 横から見ました處、五徑間の混凝土T字桁でありました。

 橋脚と桁は落橋防止の爲か、混凝土が盛られて居ります。
 左岸側へ戻つての橋臺部分。

 嗚呼、牀版から地覆、高欄の繋りが如何にもT字桁と云ふ感じで素敵であります。

 主桁は三本でありますね。
 横桁も入つて居りまして、昭和卅年代と云つても通じる姿であります。
 其左岸側に小山市の觀光案内看板が御坐いまして、巴波川水運の歴史や螢橋の竣功當時の冩眞が掲示されて居りました。
昭和九年竣功なのでありますね。
當時としましては可也モダアンな意匠の橋だつたのでは無いでせうか。

 其と、橋脚に盛られてゐた混凝土は當時からの物だつたのでありますね。
何か、耐震補強が必要無い状態なのでは無いかと思つて仕舞ました。呵呵

 因に橋名の由來でありますが、先代橋は元々"本澤橋"と命名されてゐた樣でありますが、此方が螢の群生地だつた樣でありまして、 其に因んで此方の架橋と共に"螢橋"とした樣であります。

 其と、此方舊部屋街道と云ふらしいので、多分栃木縣道一七四號線の舊道で間違無いと思はれます。

 いや併し、實に素晴しい物が見られて手荒く滿足でありました。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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