2681年 2月 16日 探訪
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此方は、東武鐵道日光線合戰場驛南側の踏切から三百米程西進した處、巴波川に架る橋であります。 ぱつと見、昭和廿年代と思しき橋でありますが、其實如何でせうか。 と云ふ事で、此方左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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如何にも親柱らしい意匠の親柱でありますが、殘念乍無記名でありました。 |
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此方も無記名、と云ひますか補修と云ふ依りは新造されてゐると云つた方が良いでせうか、さう云ふ状態であります。 若かしますと、此方の竣功當初は何かしらの記名が有つたのかも知れません。 |
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高欄の意匠は
【河内町下田原 山田橋】
の樣な感じであります。 では右岸側へ移動致します。 |
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あ、此方には銘板に當る部分が御坐います。 唯、一寸判讀不能のでありますが、一番下は"川"と讀めますので、"巴波川"の表記でせうか。 |
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處がですね、接冩して歸宅後にレベルとコントラストを弄つて讀んだ處、何と"二股川"と表記されて居りました。 現在では巴波川の呼稱で最上流部迄統一されてゐる樣でありますが、此方の竣功當初では此邊は二俣川と呼ばれてゐたと云ふ事でありますね。 |
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して、殘念乍親柱に記名が有るのは右岸上流側の親柱一本だけでありました。 |
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横から見ました處、牀版橋でありました。 扠、竣功年でありますが、何だ彼だと此方の橋名を調べてゐてから辿着いたのでありますが、栃木市の橋梁點檢結果を見ました處、何と昭和八年、皇紀二五九三年、 西暦では1933年でありました。 何か思はぬ處で現役戰前物件、而も結構交通量の多い道で、でありますから驚きました。 其意匠から昭和廿年代かと思つたのでありますが、紀元節以前の橋だつたとは、或る意味御寶發見と云ふ感じでありました。 いやあ、是は手荒く良い物が見られたと云ふ事で大滿足でありました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |